集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

2.(7-3) 江戸時代の農民のくらし (わたしたちの村)

クチナシ0625。 曇りの天候でしたが,午前中に急に強い雨が降ったり,午後には雷鳴がしたりする一日でした。  今朝,クチナシの花が咲いていることに気づきました。  虫が集まっておらず,真っ白い花が綺麗です。香りが弱いのは,「まだ…」なのか「変化した…」からでしょうか。どっちかな。  郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。 ********     (七) 江戸時代の農民のくらし    3 道路と旅  むかしの道は,せまいじゃり道で,雨が降ればぬかるみ,風がふけばほこりがまい,曲がりくねった急な坂道や,多くのとうげをこえなければならなかったので,今のように楽な旅ではなかったのです。 道路0625。 鎌倉時代より前は,旅をしても宿がなかったので,野原や山中で寝ました。このため,山犬や盗賊におそわれることもあり,危険な旅でした。江戸時代になって,しだいに商業が発達し,道路や旅館が整備されたので,通行がさかんになりました。  作手から東海道へ出るには,新城を経て吉田宿(豊橋市)へ出る道,宮崎(額田郡)を経て赤坂宿(音羽町)へ出る道,岡崎へ出る道などを利用しました。  むかしは,楽しみが少なかったので,信仰をかねて金毘羅様や秋葉様や善光寺まいり,西国巡礼などをしました。このような旅をする時には,『往来手形』どいう現在のパスポートのようなものを檀那寺で書いてもらい,関所で検査を受けて通りました。  この往来手形には,自分の住所と名前,檀那寺の証明,行き先などとともに,「お関所を無事に通してください。万一死んだら,その村のおきてのようにかたづけてください。わたしの家へ知らせていただかなくてもけっこうです。」などど書かれていました。 時刻0625。 しかし,むかしの人々は人情があつく,旅人が病気になれば手あてをしたり,病気がかるい時にはつぎつぎと村送りで,旅人の家まで送りとどけたりしてあげました。また,不幸にして死んだ時には,往来手形をたよりに,手紙や飛脚で家族へ知らせてくれました。  東海道中山道のような大きな道は,募府の御用や,大名の参勤交代などのために,宿駅や助郷や飛脚などの制度も発達しました。  『助郷』というのは,旅人の往来がさかんになり,宿駅の人馬だけでは足りなくなったので,近くの村々へ手助けを命じた制度です。  参勤交代や商人,巡礼などの旅人がますますふえてくると作手の村人たちも,東海道の吉田宿や白須賀宿,二川宿などの助郷を命じられました。  年貢をとられた上に,農繁期で働き手が必要な時期に,二川宿のように遠い所まで出かけて,ただ同然で働かなければならないために,借金がふえ,年貢もおさめられなくなり,田や畑を売る農民も出てきました。このため宿駅まで働きに行くかわりに,お金を出すようになりました。この制度は明治時代のはじめまで続きました。
旅0625。
********  注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で  注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。  注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。