集団「Emication」別館

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金輪山善福寺 (作手の名勝と史跡めぐり)

花0518。 晴れた朝でした。徐々に曇ってきましたが,気温が上がり暖くなりました。  午後になって雨が降り出し,蒸し暑さもありましたが,まだ“冷たい雨”の感じでした。  朝,夏服の学生が目立ちましたが,雨になって寒くはなかったでしょうか。  若者には,気にならなかったかな。  『作手の名勝と史跡めぐり』(発行1997年?)から最後の記事です。 ********     金輪山善福寺  ここ善福寺は須山地区にある。亀山城址からも行けるし,文殊山から歩いて下ることもできる。亀山城址から車で 約五・六分の所にある。仁王門を見上げる付近に駐車場がつくられている。住職の家の横を通って石段を少し上がると仁王門である。仁王尊二体の頭部は雲慶作と伝えられ,八尺五寸(2m50cm)の大きさである。山門を入る人にぐっとにらみをきかせている。 仁王門0518。 山門から石段がまっすぐに本堂まで続く。若者でもいっきに登るにはいささか息切れのする距離だ。両側には杉の大木がおい茂りうっそうとしている。また,この木立は大木で真っ直ぐに延び育ちのよさを感じさせる。さすが古刹境内の木である。  名刹善福寺の創建は推古天皇の御代(593〜628年)といわれている。延暦二年(783年)弘法大師並びに昆首羯摩天のお二人で観世音像を彫刻された。その後,村上天皇の天徳二年(958年)勅願所となった。久安三年(1147年)野火の災いにあい,宝物伽藍等の大半を焼失した。建久六年(1195年)東大寺大仏殿を再建した俊乘坊重源上人がきて伽藍を造営したが天正年間に武田の兵火によって焼失した。乱後領主奥平美作守貞能公が観音堂を建立した。真言宗仁和寺の末寺で,ご本尊の十一面観音像(五尺五寸)が安置されているが,秘仏であり拝顔することはできない。  善福寺に残る古文書には,その由来記が次のように書かれている。
 当山縁起の事 最初人皇十二代 景行天皇の御宇日本尊東征したまふより事起これり,夫より遙にへだたり。人皇三十三代 推古天皇の御宇聖徳太子当地に行幸有て当山を開き田源山善福寺と勅号を給ふ。此時当山初て開闢なり。日本尊東夷を征し給ふより,聖徳太子当寺を開給ふ迄に凡年四百五拾余年に及ぶなり。  本尊十一面観世音は,人皇五十代,桓武天皇御宇,延暦弐年癸亥,弘法大師並昆首羯摩天の御作なり。委しき事は序文の如し。亦大師御幼児の時飛給ふ所は,拾身ヶ嶽と言ふて讃岐国の高山なり。当山観世音を彫刻し玉ふこと大師の発願にも叶ひ,殊に羯摩の応現も新たなれば時節周緑会遇して,観音を此所に安置し,誠に観音の浄土天竺国の普陀洛山と言ふとも,是にしかし猶又当観世音は古来より今に至る迄蛭を嫌ひ給ふとて,当所は勿論近村にても当村の水の懸る田地には蛭生ふせず。又生じても一向人をなやめず,又本地の宮白鳥明神の水口の水かくの如し。
全景0518。 さて,こじんまりした観音堂に参拝を済ませる。ここからお堂にむかって左側の山道を登ると,最初に紹介した文殊山頂にでる。  本堂の後ろに“ボダイジュ”が生えている。時間が許された,ら見ておこう。これは作手村指定天然記念物である。幹囲1.35m,樹高15mある。  ボダイジュは,中国原産の落葉高木で,そのむかし,福岡県に渡り,全国に広まったといわれており,寺院などに多く植えられている。  お釈迦さまが,ボダイジュの木の下で悟りを開いたといわれるボダイジュの木はクワ科のインドボダイジュで,寺院などに植えられているものとは異なる。  善福寺のボダイジュは,伝説によると弘法大師お手植えの木といわれている。  一応,作手中部の名勝と歴史探訪の散策はここで終了とし,次回を楽しみに下山しよう。  どうか事故のないようにお帰りください。 《写真上》 金輪山善福寺仁王門 《写真下》 金輪山善福寺全景 ********  記事にある「日本尊東征」について,村制施行八十周年を記念して発刊された『つくでの昔ばなし』の話にも登場しています。   ◇やまとたけるの命とミコサシ
地図0424。 ※地図をクリックすると拡大表示します。
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