出勤。祈る心 (つくで百話 最終篇)
朝から雨の降っていました。乾燥した空気が,しっとりした感じがして,心地よく過ごせました。
今日,1年ぶりに“出勤”しました。気持ちを“しゃっき”とさせようとネクタイをして出かけました。
いろいろな気づきと発見がありました。
明日は“テレワーク”です。
出勤とテレワーク,それぞれの“良さ”をうまく活かしていくのが,これからの「日常」なのでしょう。
さて,できるかな…。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「昔話と伝説」の項からです。
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祈る心 鈴木庶水
私達の村の明和地内で,県道から東田原へ岐れる通称堀割の辻に,二基の石仏が安置されていた。元の県道が国道に昇格して,大幅に改修されることになって,辻の位置も昔とは少し変り,今では,この石仏も国道沿いの路傍に移されている。
二基の中,向って右の一基は大分毀れているが,左のはほぼ原型を保っている。然し,何れも風化が相当進行しているので,石肌の刻みを細かくうかがうことは難しいが,石仏を中心に「右ほ(本)うらいじ 左ぜんこ(古)うじ」の,文字だけは辛うじて読みとれる。これによっても,昔の道しるべであったことは明らかであるが,それが単なる道標ではなく,道中安全の祈りが込められたものであったことも納得できる。
石仏におかれても,一切平等の大原則に立って,道行くあらゆる人々に遍く,有難いご守護のご利益を垂れ給わったことであったに違いない。
私は,これと同類と思われる物を,この辻以外の場所に於いても屢々見うけたことがある。それらの中には,それが地蔵尊であつたり,観世音菩薩であったり,また,道中安全の文字がこくめいに刻まれている物もあった。
また,同じ村内の島川橋の橋畔に
人のため かかるわたりの 安かれと
橋もる神に 祈ることのは
と,刻まれた古い歌碑がある。これは天保年間にこの地を訪れた,歌人磯丸翁の水難防止・交通安全の祈りであった。昔の道には,このように到る所に色々の形式で,祈りのシンボルが建てられていたようである。
昔の人達が,この様にして旅人のために親切に道を教えたり,旅の安全を神仏に祈ってくれた心遣いに,私は深い床しさを覚える。それが昔の道であった。
今の道路が!!,どちらを向いても,祈りをこめた石仏のお姿など滅多に見られない。ただ,ここでは路面の持つ力学的安全度と,その路面を運ばれる物量の速度とが,いつも問題になっている。そして,交通の安全は冷厳な法規と,遵法の良識と技術の訓練によって確保されている。これが今の道である。近代的工学の粋を集めて建設された高速道路,応接に遑ないまでに立ち並ぶ各種の標識と信号。そうした中を,昼となく夜となく夥しい車が洪水の如く走り続け,その路面の一部分を人々が戦々競々として歩き,命がけで横断している。それが今の道である。
昔の北陸街道が越後の荒海に接する所に,親知らずの難所があづたというが,今,日本列島の主要道路全線に,そうした恐怖感は無いであろうか。祈りのシンボルは──祈る心は──
然し,私は先般,東名のバスで牧の原ICに降りる時,偶然運転手さんの席の前に「成田山」の守り札が掛けてあるのを見た。そういえば,今まで何の気なしでいたが,時々乗せてもらう自家用車にも,庁舎の車にも,お礼が掛けてあることは事実だ。してみれば,交通安全はハンドル担当者の双肩にかかっており,「お守り」が身近にあって,これを守護していて下さるといったもの──「祈る心」には,昔も今も何等変りはないのだ。
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