集団「Emication」別館

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相談。ホラ米爺さん(2) (つくで百話 最終篇)

花0217。 の日,気温が低く寒い日でした。  作手小学校から相談のあった“授業公開”について,午後,打ち合わせました。  新型コロナ禍で行う“新しい形”を相談し,その“手法”を確かめました。  新しい形が,これからの“日常”となっていくでしょう。保護者の方にも喜ばれると思います。  教職員のみなさん,よろしくお願いします。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     ホラ米爺さん (つづき)   公共事業に率先  働き盛りの五〇代にもなると,ホラ米さの資産もメキメキと増えてきた。人望も高まってきた。こうなると,村のいろいろの役職も押しつけられることになった。学務委員・区長・村会議員など,次々に選任された。明治四十二年には,高松尋常小学校の建築委員長を委嘱された。学校の建築については,敷地造成から新築落成まで,前後二年近くも寝食を忘れて東奔西走,献身的に努力した。落成式の当日,彼の功労に酬ゆるため作手村から金五拾円を贈られた。彼は,この慰労金をそっくり次の時代の学校建築基金として,高松学区に寄付した。この基金郵便貯金として,年利五分の複利計算で百年間積立てると,六千五百八十九円になると書かれた木礼が高松小学校の玄関に掲げられてあった。貯蓄奨励を意図した学校教育の一端にも資したいという彼の考えからでもあったかと思う。   時局を見る眼  還暦を迎えたホラ米さは,家督を長男徳平にゆずって身軽るになった。それから一〇年ばかり経ったある日,「これから全国漫遊をしてくるぞ」と言って漂然と旅に出た彼は,先ず名古屋へ行った。名古屋城から熱田神宮と廻った彼は,名古屋港の見物に出掛けた。港内には何隻かの大型貨物船が入港しており,山と積まれた夥しい米材を降していた。降された米材は,堀川に一杯になるほどの筏に組まれていた。この状況を観た途端,流石のホラ米さも腰を抜かさんばかりにびっくり仰天した。  港務所の職員に会って米材の値段を聞くと,あの見事な良材が内地材の半分以下であると聞かされた。また,アメリカから名古屋までの運賃はどのくらいかと尋ねたら,尺〆当りで,小林から豊橋までの運賃よりも安いことを知らされた。(尺〆は一尺角一三尺長の材積)  その頃の日本では,第一次世界大戦後の不景気で恐慌状態であった。殊に木材の暴落で,山村では大騒ぎをしていた。 「これじゃ,作手村もつぶれるかも知れんぞ。」と,考えたホラ米さは,全国漫遊など呑気なことを考えている時ではないと思って,早々に家へ帰ってきた。 「ドエライことになったぞ。うかうかしとると尻の毛まで抜かれてしまうぞ。」と,会う人ごとに名古屋港での見聞を披露した。そして,この農村不況をどうして切り抜けるかについて,頭をひねることになった。  とかくしているうちに昭和三年の春を迎え,普選第一回の総選挙が行われることになった。その選挙に,政界革新を叫んで立候補した鈴木正吾が彼の家を借りて演説した。この候補者の演説にホラ米さは心底から共感を覚えた。 「おれにも演説をやらしておくれんかい」と,候補者にたのんで,それから各地の演説会で,その前座をつとめた。彼は演壇に立つと 「わしは七一歳であるが決して老人とは思っていない。一七歳の青年である。」と,言って,彼一流の大風呂敷をひろげて聴衆の喝采を浴びた。  ある晩秋の夕方,桑の根株を燃料として風呂沸しをしていたホラ米さは,誰かが狸とりのために桑の根株にカンシャク弾を仕掛けておいたものを窯の中へほうりこんだので爆発がおこり,そのカンシャク弾の破片が彼の左眼をつぶしてしまった。気丈な彼は,そんなことで閉口垂れるような男ではなかった。 「よし,これからは独眼流で行くぞ」と,余生を頑張り通した彼であった。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で