集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

詩を読む。作手の三等郵便局(2) (つくで百話 最終篇)

芽0116。 朝は日差しがありましたが,雲が広がり,どんよりした天候の日でした。  新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化する中,初の「大学入学共通テスト」が始まりました。  受験生の多くが学校完全週5日制が始まった2002年度に生まれ,中学生になる頃から「新しい入試制度で…」と変更が伝えられ,直前まで“方針が二転三転…”と,不安や迷いをもって,今を迎えています。  そうした話題を考えながら,思い出した詩を読み返しました。
   あさがくると   まど みちお 朝がくると とび起きて ぼくが作ったものでもない 水道で 顔をあらうと ぼくが作ったものでもない 洋服を きて ぼくが作ったものでもない ごはんを むしゃむしゃたべる それから ぼくが作ったものでもない 本やノートを ぼくが作ったものでもない ランドセルに つめて せなかに しょって さて ぼくが作ったものでもない 靴を はくと たったか たったか でかけていく ぼくが作ったものでもない 道路を ぼくが作ったものでもない 学校へと ああ なんのために いまに おとなになったら ぼくだって ぼくたって なにかを 作ることが できるように なるために
 受験生のみなさん,若いみなさん,あなたは「なんのために」「なるために」今そして未来(あす)を過ごしますか。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     作手の三等郵便局 (つづき)   逓送の経路  高里郵便取扱所が開設せられると,郵便物は新城郵便局から高里へ逓送夫によって運ばれた。逓送夫は郵袋に入れられた郵便物を天秤棒で荷って運んだ。守義郵便局へは,高里郵便局から逓送夫が仕立てられた。  大和田郵便局ができてからは,新城から大和田へ運んで,大和田から高里へ送られることになった。夕方新城をでた逓送夫は,大和田で仮眠をとって夜中に新城へ出発することにしていた。暗夜や風雨の夜に,雁峯峠の坂道を越えての逓送は相当の難行苦業であった。  新城と高里の間に定期自動車が運行されるようになると,新城〜高里は自動車で運ばれることになった。終戦後は定期バスで運ばれたが,最近は郵便自動車が逓送をしている。    郵便物の集配  明治,大正時代は道路も改修されていなかったので集配人は全部徒歩で区内を廻らねばならなかった。集配区域は時々変更があったが,例えば大和田郵便局の場合では,大和田・岩波・鴨ヶ谷・相寺・川合・野郷・見代・和田・戸津呂・杉平・高松・田代・荒原・布里・只持・一色など,広範囲に渉っていたので集配人の労苦は並大抵のものではなかった。この区域内を,二人又は三人で集配するためには朝六時頃から出発して,日を暮して帰るのが常であった。岩波の長野山や布里の七久保までも,わずか二・三戸の配達のために山坂を越えて廻る集配人の刻苦精励ぶりには感謝の外なかった。    請負制度の三等郵便局  わが国の三等郵便局は,請負制によって運営されていた。会計年度毎に本省から交付される金額によって,人件費も庶務雑費も支辨された。今私の手許に当時の請負金額をうかがう資料は全然ないが,島亀平が局長に就任した時の月手当が金五円であったというから,当時の村長の報酬月額と略同程度であったものと思われる。  集配人の竹下市太郎の日給は一五銭ときいているから,月額にすると局長の手当と大差なかった勘定になる。  昔の局長と集配人・事務員などの関係は,今日の労資関係などとは雲泥の相違で,恰も一家族のような温い血の交流があったようである。事実,大和田郵便局長などは,局員の個人的生活の面倒もみておられたようである。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【関連】   ◇大学入学共通テスト独立行政法人 大学入試センター