昔の作手の山林(1) (つくで百話 最終篇)
“寒い一日”でした。
冬型の気圧配置となり,雲も“雪雲”のようで,日が出ても暖かさはありませんでした。今夜から明日にかけて雪が降るとの予報があり,初雪,初積雪となかもしれません。
気を付けましょう。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
********
昔の作手の山林
日本列島は,洪積世代の百万年から一万年くらい前の間に,四回氷期に襲われている。それまで作手の山野に生育していた植生も動物も,殆んど絶滅したものと思われる。現在ここにある植生や動物や人間などは,その後迎えた暖期以降に根づいたものであろう。
最初に発生した苔・シダ・ヨシなどにつづいて,常緑潤葉樹が繁茂し,落葉澗葉樹,針葉樹ヘと広範の植物をうみだしたものであろう。日本のスギの古木としては,九州屋久島の縄文杉が七〇〇〇年,同地の大王杉が三〇〇〇年くらいと推定されているが,市場の古宮や,相月の白鳥神社の境内には,一四〇〇年くらいのスギ・ヒノキが現存している。村内各地の神社仏閣の境内にあるスギの古木には,五〇〇年〜一〇〇〇年と推定されるものが多数見うけられる。終戦後間もない頃,田原地内の河川改修工事の際,地下五〜八メートルの粘土層上に,水平に横臥している埋木が多数発見されている。中には,最長三〇メートルにも及ぶ巨木もあり,埋木の多くは深根性のもので,樹種は次表のようである。
埋木が,泥炭層下二〜三メートルにあることと,泥炭の堆積速度が年間一〜数ミリメートルといったことを考えると,相当の年月を経過していることが推定される。
この埋木は,作手湿原がその発達段階上,全国的にも稀な「中間湿原」とも見なされ,埋木はその一つの特徴条件である。なお,この埋木地帯は,作手湿原下の全部に分布していることが判明した。殊に長野山のものは開墾の結果,地表に露出した枝葉・果実等は材部の周辺に半化石として残っている点から考えても,相当旧いものに違いない。また,川尻地区の河川改修時には,地下三〜五メートルからも発掘されている。
大正末期の頃,川尻・田原地内に,中川忠三郎家の見事なヒノキ山があった。樹令三〇〇年といわれていたから,恰度木曽国有林のヒノキと同年代に生じた天然林であった。今から三六〇年くらい前に,笹や竹にジネンゴがついて全滅したことがあった。その禿山に生えたヒノキが生育したのが,木曽のヒノキ林であったといわれているが,作手郷にも木曽谷と同じ現象が出現したものと思われる。
(つづく)
********
注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で
注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で
注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で
【感染症メモ】
「正しく恐れ,不安と付き合う」ことを。
先週の週刊誌で読んだ岩田健太郎(神戸大学)の話から。
○ まず断っておきたいのが「今日の感染者は何人」といった日々の数字に振り回されるベきではないということです。 ○ コロナに感染してから発症までにざっくり1過間。 ○ 発症後,数日症状が続いて検査を受ける。 ○ 検査の結果が集計されて報告されるまでに10〜14日。 ○ さらに重症化する場合は数日を要する。 ○ その患者が回復する,あるいは亡くなるまでに数週間。場合によっては数か月かかる。 ○ 従って,今われわれが見ている「数字」は現在の数字ではありません。 ○ 現状の認識も,将来の予測も,(略) それらの変化のトレンド(傾向)を前提に考える必要がある。第3波で言われる「勝負の3週間」は,誰(何)に勝負をかけ,何時(いつ)のどのような結果を求めているのかで,「3週間」の具体的な期間が変わってきそうです。