集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

大昔の人のくらし(5)-2 (つくで百話 最終篇)

兎1018。 日中,日差しのあるときは暖かかったですが,日が陰ると寒さを感じる日になりました。  午後,久しぶりに会う方々との会議でした。  3密を避け,感染予防で,広い会議室に数人,そしてオンライン参加者で進められました。このような設営や準備が,すでに標準になっているのだろうと思いました。  会議は,取りまとめの方の手際よい進行で,充実した話し合いができました。ありがとうございました。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民俗と伝承」の項からです。 ********     大昔の人のくらし   沢田久夫   (5) 弥生文化のくらし (つづき)  山間部が過疎に歎いている時,平野部ではすでに数十戸・数百戸のムラが出来ていた。弥生文化も初期には,生活様式に前代とさしたる変りはなかったが,中期以後になると,農業技術が進歩して生産性が高まり,生活が安定するとムラはいよいよ大きくなり,瓜郷や登呂遺跡のような大規模耕地をもつものも現われてくる。  こうなると大切なのは耕地であり,土地の良否広狭がムラの盛衰に結びつき,土地の争奪や縄張り論争も必然的に起ってくる。紛争が生じた時,敢然と戦うのは男であり,力が強く,経験豊かなものがその指導者に推され,やがて部落の司配者になって行った。元来,農耕は自然を対象とするだけに,経験がものをいい,先例が尊重される。経験豊かな老人は尊敬され,調法がられたに違いない。  農業経営も,始めの中はみんなで開墾し,みんなで種を蒔き,みんなで取入れ,分配は員数で公平だった。ムラは,いわゆる原始共産社会である。しかし,農業が進歩し,経済に余裕ができてくると,個人的な分野が拡大し,表向きは共同経営でも,かげには私有財産も生れてくる。一旦私有財産が認められると,働きによって貧富の差が生じ,一家の中でも力の強い男が重んぜられ,以前の母系社会は父権社会へと移って行く。  弥生文化の特徴は,金属器と土器製作に,ロクロが使用されることである。農具としての木鍬・鋤・木臼・木杵,生活具としての丸木舟・下駄・杓子があるが,何れも鋭利な鉄の刃物で削られており,剣や鏃も鉄製であったろう。青銅で作った銅鏃・銅剣もあるが,これは武器というより祭具とみるべきであろう。青銅器は,最初は大陸から製品が輸入されたが,後には日本でも鋳造されるようになり,その中に日本独特の銅鐸がある。釣鐘を押し潰したような形をしており,秦の扁鐘に似ているというが,起源も用途もはっきりしない。弥生中期に,忽然として日本の中央部に出現し,弥生文化の終末と共に姿を消してゆく謎の青銅で,西部日本の銅戈銅剣文化と対比される。しかし,その出土状況から推察すると,銅鐸は村の宝器であったらしく,何かの動機によって山ふところに埋め,そこを聖地としたらしい。四国中部から中国東部を西限とし,遠江を東限とする文化圏から,二百個ほど出土しており,三河からは十ヶ所,十四個が知られている。形は大小様々であるが,大といえども一メートル半を超えない。普通胴部を数個に区画し,袈裟襷文または流水文を施すのが普通であるが,中には原始絵画を浮彫にしたのがあり,農耕・狩猟・漁撈を探る手がかりとなっている。  今から一八六年前の寛政元年に,作手とは地続きの段戸山中から三個の銅鐸が発掘された。推定場所は設楽町田峯学校のある辺で,ここは旧幕時代,田峯の枝村・野平新田のあった所で,カタトコという地名もあるから,開墾によって発見されたと思われる。三個の中二個は小野村(南設楽郡鳳来町海老連合)の大工孫兵衛が持ち帰ったが,その後の行方はわからない。残る一個は賀茂郡羽明(豊田市松平)の河合氏の手に帰したが,四十二年後の天保二年に,子孫の河合全左衛門から一宮砥鹿神社に寄進され,今に神宝として神庫に保管され,国の重要文化財に指定されている。高さ三九センチ,銅鐸としては小形で,袈裟襷文で飾られている。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で