集団「Emication」別館

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大昔の人のくらし(5)-1 (つくで百話 最終篇)

花1017. 朝から“冷たい雨”が降り続き,気温は10度前半のまま一日が過ぎました。  寒い一日でした。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民俗と伝承」の項からです。 ********     大昔の人のくらし   沢田久夫   (5) 弥生文化のくらし  作手といわず,奥三河の山間に形成された小さな盆地や,川べりの扇状地には,谷川の水をひいて拓かれた美しい田並が見え,湧き水にめぐまれた山の麓や洞の窪地には,大小様々の形をした棚田が段々に重なり合い,ひしめき合って,もうこれ以上拓く余地はないかと思われるまでに,開拓しつくされている。  では,この山深い奥地に,いつ頃から水稲耕作が始められたであろうか。それは,縄文晩期の終末にあたって,東三地方に成立した水神平式土器が,この地方に繁栄した頃である。この土器は,名のように宝飯郡一宮町の水神平遺跡を故郷とし,器面に粂痕文を施した土器で,北設楽郡東栄町の桜平遺跡から,静岡県盤田郡佐久間町の半場遺跡へ,更に天龍川を遡って,遠く長野県下伊那郡まで北上しており,弥生式土器の最も古い型式といわれている遠賀川式系統の土器も併存しているから,これは縄文式ではなく,弥生前期とされている。  この弥生文化は,遥か西の北九州から東漸してきた新来の文化で,西暦紀元前二・三世紀のころ,大陸──おそらく江南地方から伝来したものだと思われる。まず遠賀川の流域に根をおろし,ここを基地に瀬戸内海をすぎ,大和を経て伊勢湾岸に達するまで,一世紀とはかかっていない。縄文文化が,一型式を経るに数世紀を要したことを思えば,全く隔世の感がある。尾張まで超スピードでやってきた弥生文化は,ここで一息入れ,その地盤の固まったところで三河に入り,豊川の氾濫原であった瓜郷に,紀元前後に定着する。  弥生文化が,三河奥地に入ったのはその後のことで,豊川筋か矢作川筋か,俄かに断定し難いが,作手の場合は地勢的にも距離的にも,豊川筋と考えて大過あるまい。  狩猟と漁撈を主体とした採集経済の縄文文化から,農業という生産経済を主体とする弥生文化への大転換は,日本に於ては,いとも鮮やかに行われた。何がそうさせたか。稲作という高度な技術を習得するには,絶対的に指導者を必要とする。はるばる波を越えて来た新来者に対し,この島国の人々は甚だ寛大であったらしい。というよりは,抵抗できないほどの文化の相違,例えば青銅器や鉄器に対する石器というような,優劣の相違が誰の目にも明らかだったからではあるまいか。また中期からの原始農耕の伝統,後晩期の絶望的な自然食糧の欠乏と,群の長の統率力という二つの下地なしでは,これほどの大変革がかくも速かに,しかも平和裡に行われるはずがない。そしてイネという亜熱帯の植物が,ついに寒冷な東北地方へ,更に川を遡って山奥へ山奥へと上り,中部山地の背稜地帯まで侵透し,現日本人的な農業社会へと,スムーズに移行していくはずがないのである。  三河の弥生式は,水神平式──続水神平式(以上前期)──瓜郷式──古井式──長床式(以上中期)──寄道式──欠山式(以上後期)と編年され,紀元三世紀ごろの次の土師器ヘバトンを移す。そして,作手にイネが作られるのは前期からで,木戸口(高里)に始まり,ヌイガイツ。後期田ノロ(菅沼)白鳥前(白鳥)時期不詳となっている。五遺跡とも,近くに湿田を控えた稍小高い乾燥地で,日当りもよく,飲水にも事欠かず,後世も引続いて村落が営まれる地である。しかし,当時の農耕に適した土地は,そうざらにはなかった。登呂遺跡(静岡)のように,矢板を打ち並べて畦をつくり,水路を設けるというような大工事は,どこでも行えるというものではない。瓜郷にしてからが,大水には冠水しても,ふだんにはひたひたに水がさす豊川畔の氾濫原を水田にしており,格別畦作りや水路作りをした形跡はない。しかし瓜郷のような地形は,山地には全くない。あるといえば河岸の小段丘や,扇状地の端にある湧水を引入れて,小規模水田を営むにすぎない。各遺跡を通じて遺物は少なく,中には一時の足溜りに過ぎないような遺跡もあ り,永い時間に亘り定着したと思われるような遺跡は全く見当らない。  もし当時の農業が,肥料を全く使わずに行ったとすれば,たとい品種が少肥性のものだったとしても,この湿地の利用は,せいぜい四・五年である。これは焼畑に於ても同様である。小面積の水田と低収穫の米で,どうして一年の食糧が得られようか。そこで思うことは,米の魅力にとり憑かれた人々が,焼畑耕作や狩猟・漁撈をかみ合わせて,湿地から湿地へと幾世紀の流浪をつづけたその心情である。思えば縄文文化の時代には,その全盛を誇示した奥三河の山岳地帯は,弥生文化の時代には全く鳴りをひそめ,次の古墳出現までなお久しい雌伏を必要としたのである。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で