大昔の人のくらし(4)-1 (つくで百話 最終篇)
今日も天気の良い日でした。出先で28度を超えており,上着のいらない暑い一日でした。
屋内でも,半袖姿で過ごす姿が見られました。
「天高く馬肥ゆる秋」の似合う天候はいつかな。
この故事,ちょっと違う意味もあるそうで…。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民俗と伝承」の項からです。
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大昔の人のくらし 沢田久夫
(4) 縄文末期のくらし
縄文早期の終りから,前期・中期のはじめにかけて温暖期がやってくると,植物の採集と嗜食による生活の安定が進み,中期の中頃からは植物の栽培も始ったらしく,久しい豊かな高原の営みがあった。しかし,良いことばかりそういつまでも続くものではなく,やがて衰えの時がやってきた。竪穴の炉が次第に大きくなり,沖積世になって四回目の寒冷期がきたのである。実をよくつけてくれるクヌギ・ミズナラが次第に低地に下り,ブナ・ツガなどが高山から降りてきてイモ類の生育ができなくなると,人々は土器製作に精魂をこめ,美術的意匠をこらす余裕がなくなる。そこで遥かな昔に返り,食糧集めに奔走して魚や獣を追い回す羽目になった。こうして輝かしき縄文中期は終り,時代は後期にうつる。時に,ラヂオカーボン測定三千九百年である。
縄文後期の特徴は,土器の衰退である。土器の盛衰が,直ちに文化の盛衰とは限らないが,後期の土器は,器形や紋様が単純な上に小じんまりしていて,大正末頃から鳥居龍蔵博士によって,中期の厚手派に対し薄手派といわれていた。薄いということは,それだけ精巧になったともいえるが,何といっても力量的不足は争えない。それに,あれだけ容器に機能と形態が分岐していたものが,また単一形態の前期や早期に帰ってしまったということは,そこに何等かの社会事情がなくてはならない。
土器は,赤土をこね,焚火で焼いて作るが,成形の方法には,巻上げ・輪積み・手づくねの三通りがある。小さいものは手づくねで作るが,大形は輪積み法,尖底土器は巻上法で作る。手づくねの外は,粘土紐をしっかり接着させるため,表裏を指でおさえるが,それだけでは器面に凹凸があるので,それを調整するため縄や棒をころがす。器面の文様は,こうして着けられる。
文様のつけ方はいろいろある。
(1) 縄をそのまま土器面に回転させる──縄文。
(2) 縄を軸に巻付けたものを回転させる──撚糸文。
(3) 縄を軸に巻付けたものをそのまま押しつける──絡縄体圧痕文。
(4) 彫刻した細い棒を回転させながら押しつける──押型文。
(5) 貝穀を押しつける──貝穀文。
(6) 貝穀の背,或いは腹縁で土器面をこすりながら押す──貝穀條痕文。
(7) へらや細い棒状の工具で沈線を書き,又はそのまま押しつける──沈線文。
(8) 半分に割った細竹を連続的に押す──爪形文。
(9) 粘土の紐を張りつける──隆線文。
(10) 縄文の上を区切り,その間をすり消す──磨消縄文。
以上の紋様は時代により,所によって流行すたりがある。例えば,細隆線文がある尖底土器は草創期,楕円・山形・格子目等の押型文なら早期というように,文様によっていつ頃のものか判定がつく。また,器形も時代によって変遷するので,これと文様との組合せによって,当時の文化圈を想像することも可能になる。
大名倉遺跡(設楽町)を例にとると,ここは稀にみる複合遺跡で,縄文早期から晩期弥生式まで連続しており,関東・関西・信州高地と,各方面の文化が混在している。
早期──山形・楕円・押型文や撚糸文は関東系であるが,粕畑式から人海式までは尾張沿海部。
前期──黒浜式は関東,大歳山式は関西,踊場式は信濃。
中期──勝坂式・加曽利E式はともに関東。
終期──堀ノ内式・加曽利B式はともに関東。大名倉式は,ここ独特の地方式。宮滝式は関西。
晩期──亀ヶ岡式は東北,伊川津式は渥美半島,水神平式は東三河。
といったように,奥三河の谷を方々の文化が風のように通りすぎ,あたかも東西文化の接触地帯の感がある。
(つづき)
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