集団「Emication」別館

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大昔の人のくらし(1) (つくで百話 最終篇)

花1002。 今日は晴れて日差しがありましたが,冷たい風が吹いて,「秋の深まり」というより寒さを感じる一日でした。  昨夜の“中秋の名月”は,晴れて風もなく,ゆっくりと見ることができました。  みなさんは,いかがでしたか。    ◇昨夜の「中秋の名月」Instagram写真と動画)  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民俗と伝承」の項からです。 ********     大昔の人のくらし   沢田久夫   (1) 旧石器時代のくらし  終戦後間もない昭和二十四年,空っ風に吹きさらされる群馬県赤城山麓で,岩宿遺跡が発見され,日本にも旧石器時代があったことが確認されたが,さて当時の住民はということになると全く五里霧中で,それが分るまでには,なお十年近い歳月を必要とした。昭和三十二年八月,偶然のことから考古学者の悲願であった旧石器時代人の骨が見つかった。場所は意外にも作手にほど近い,豊橋市牛川町忠興の石灰岩採掘場である。爆破によって生じた崖の裂目の一部から,鳥獣など動物の化石骨に混って,左上腕骨の一部が出た。東京大学人類学教室の骨博士こと鈴木尚氏と,地質学教室高井冬二教授の共同調査によって,中部洪積世の女性人骨とわかり,牛川人と命名された。  物事は不思議なもので,謎の一端が解けると,次が,ずるずると糸を引くように出てくる。翌三十三年,お隣りの静岡県引佐郡三ヶ日町只木の採石場から,アオモリ象の化石骨といっしょに人骨が,更にその翌年,静岡県浜北市岩水寺の石灰岩鉱山からも発見され,それぞれ三ヶ日人,浜北人と命名されたが,年代は牛川人の十数万年前に比べると新しく,現代人に近い数万年前と考定された。  日本の洪積世(約百万年前から一万年前迄)には,大きく四回の氷期がある。どういう原因か不明だが,北極の寒気団が南にひろがり,厚い氷が北半球の半ばを被った時代で,ギユンツ・ミンデル・ルス・ウユルムの四氷期の間には,暖かい間氷期があった。牛川人の時代は三回目のルス氷期が完全には終らず,地表をしめつける氷河に搾りあげられるように,マグマ(岩漿=地中の深所にある高熱流動性の岩石物質)は沸騰していた。御嶽や乗鞍などの火山は大爆発をつづげ,キノコ形の噴煙は空高く吹上げて,凍った世界におびただしい火山灰を雪のように降らせていた。火山灰の堆積した灰色の世界,骨を刺す極寒の世界が牛川人の世界であった。従って植物も動物も沖積世(約一万年前から現代迄)のように多くはなく,この灰色の世界をさまよう人たちが,偶然の地縁で牛川の丘陵上に流れつき,しばしの生活を営んだものであろう。この頃の日本は,今のような島国ではなく,大陸の地続きで,間氷期にはインド系のナウマン象が,長い鼻をふりながら陸の橋を渡って日本にやってきた。牛川をはじめ三つの遺跡からは,当時の文化を示す石器は出なかったが,中部洪積世には,礫器という手に握って使う大形重量の武器があったから,腕の長さだけの加速度と,石器端の尖りを武器として,牛川人は野獣と闘ったことであろう。  しかし礫器は,象やトラなどの巨獣猛獣に対しては,余りに無力である。恐らく彼等は傷つくか,或は病んで斃死寸前の,又は全く死んでしまった屍体に群がって,その肉をむしってくわえ,ナイフ(石刃)で切り取って喰ったであろう。要するに旧石器人は,哺乳動物の死体掃除人として,野獣と野獣の間に僅にうごめく野獣にすぎなかった。水が欲しければ野獣の血をすすり,または遠くの泉まで水を飲みに行ったので,水のない丘陵上でも,断崖の洞窟でも,高原でも平気だった。飢と寒さと,外敵と病で,人口は極度に少く,背も低く(一メートル五〇以下)短命(三十才位)で,野獣の皮を終日咬みつづけた。皮下脂肪をさらして衣服とするためで,奥歯の磨耗は著しく,その歯の終る時が生命の終る時であった。  第四回のウエルム氷期(五〜六万年前)が終ってもすぐ暖くはならず,暫らくすると亜氷期がやってくる。この頃になると,もうナウマン象は見られず,生残りの小型のアオモリ象も次々に姿を消した。次第に繁殖してきたイノシシやシカはひどく敏捷で,到底追うだけではどうにもならず,それを獲って生きぬくためには,もっと有力な武器が必要だった。そうした願望が実って,腕の振りだけが身の安全を保証する手握りから,短いとはいえ,柄の長さだけ敵と離れて攻撃が加えられる手槍が発明された。半々の危険率の均衡が破られ,少くとも何パーセントか狩から帰ってくる人が多くなった。 挿絵1002。 やがて手槍は投槍にも使われるようになり,人々は隠れていて自分を露出しなくても,敵を斃せるようになった。こうして人間は,暖期の到来とともに,俄然増加して行く動物の運命を握るに至ったのである。石の鎗先はポイント(尖頭器)と呼ばれ,石鏃の祖型とされる石器であるが,最古の縄文土器である草創期の隆線文土器と併存するところから,旧石器とするより,新石器初頭とする方が妥当とも考えられる。  三河は,旧石器時代人骨の最初の出土地だが,旧石器時代遺跡は意外に少ない。昭和三十六年に発見された茶臼山遺跡(豊根村)では掻器6,石刃34,石核6,尖頭器3,剥片多数を出土している。同三十八年の市場口遺跡(設楽町)では掻器6,石刃2,石核1,尖頭器4,剥片14,同三十七年の萩平下の投遺跡(新城市)では,掻器5,石刃2,尖頭器25,石核2,剥片多数を出した。以上三ヶ所は学術発掘であるが,それ以外地表採集で明らかな遺跡としては,五本松(岡崎市美合町)が細石刃,初吹(豊田市平和町)細石刃,尖頭器が知られ,尖頭器のみなら樅ノ木(稲武町中当)ほか,十六ヶ所が報告されている。作手の「こうやまき」2号をみると,高里と五領に尖頭器があるように記してある。実物を見ないから何ともいえないが,戸津呂の佐宗義一氏蔵の石器は拝見しており,その中の一点は紛れもない尖頭器であった。この一点だけで,大づかみに一万年以前に,作手村に足跡を印した人間のあったことがわかる。作手村の住民登録第一号である。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で