集団「Emication」別館

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「作手村姓氏考(その2)」(続 つくで百話)

丼0119。 冬の一日,ワクワクする学びに寒さを忘れ,熱くなりました。  「“問題”は何ですか?」  「それは○○で…。」  「それには…。」  なるほど。納得。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手村姓氏考」からです。 ********     作手村姓氏考(その2) ──太田亮著 姓氏家系大辞典抄録── 奥平 オクダイラ 1. その出自には異説あり。赤松氏の後裔児玉新左衛門氏行の後にて上州より三河に移るといい,又武蔵児玉党にて上野の国奥平にありしが児玉庄左衛門定政,尹良親王に随従し,応永三十一年三河作手に移るという。寛政系譜平氏良文の流を収む。一族東三河に栄え,菅沼氏と共に山家三方衆として威を振った。奥平信昌に至り諸公に列せられた。家紋 軍配団扇の内松竹,九曜。 加藤 カトウ 1. 加賀の藤原氏の意なり。藤原利任六世景道,加賀介たるにより加藤と号す。加藤次景廉の二男景長甲斐国に移り,景恒に至る迄武田家に仕え,景俊に至り三河に移るという。これ左馬介嘉明の家なり。家紋 下り藤 蛇目。 2. 前項景廉の子光兼 承久の乱に討死,其子三河賀茂郡加納に居住し,一時加納と称せしことありと。三河設楽郡鴨ヶ谷村に加藤源左衛門,碧海郡小川七村の城主播磨守,中貝戸村加藤権之助の名見ゆ。 鈴木 スズキ 1. 天下の大族にして族類の多き事他にその比を見ず。鈴木氏は熊野の神人たる穂積氏に出ず就中三河にあるもの最も強盛なり。而してその入国には諸説あり。  寛永系譜 三郎重清が叔父に鈴木善阿弥あり。義経の跡を尋ねて奥州に下るに,三河矢作に至りて,脚病を得て逗留の間,高館没落の由をききて,賀茂郡高橋庄矢並村に住す」と。この善阿弥は鈴木系図に「善阿弥 俗名次郎重義 承久元年十一月朔日死」とあり,寛政系譜には平内太夫重善に作る。鎌倉実記,三河剛補松は重義を次郎重行とし,二葉松は鈴木七郎を三河鈴木の元祖とす。家紋 下藤丸 抱稲穂 三つ雁の丸。  一族賀茂,額田,碧海の三郡に栄え,一時は織田に通じ,武田,今川に当りしことあるも後家康の麾下に属す。而して他姓の三河武士にして往々にして藤紋を用ふるものあるは大率,鈴木氏との関係に本づけるが如し。 2. 三河鈴木氏に藤原姓のもの寛政系譜に見ゆ。家紋 藤丸 三巴。 3. 能見松平の支族,重弘のとき外家の姓を冒し鈴木と称すと。 4. 足助の地は鎌倉以降,足助氏の拠れる地にして元弘の乱に有名なる足助重範を出せり。然る後には鈴木氏の所領となり,西三河に雄飛し,松平氏と対峙して譲らず,その足助氏との交替は詳ならず。熊谷家伝記によれば天文十三年信州新野の関氏亡び,その旧領中,三州分二百三十一貫は足助城主鈴木伊賀守の領となるとあり,弘治二年冬,下条信氏三州武節城に鈴木勢を陥いると載せたり。元亀二年武田信玄足助城を陥いれ,鈴木越後守重直岡崎に奔り,天正三年甲州勢撤去して再び之に帰る。 佐々木 ササキ 1. 近江国蒲生郡佐々木荘より起る。宇多天皇の皇子敦実親王の裔といい,東鑑治承四年条に「佐々木秀義 近江の佐々木荘を伝領す」と見え,鎌倉幕府重臣として栄えたれば,分派数十流に及び,全国屈指の大族となれり。家紋 四目結 角立四目結。 2. 三河の佐々木氏 額田郡巣山村に佐々木与十郎ありと二葉松に見ゆ。 柴田 シバタ 1. 三河国額田郡柴田郷に住せしより称号す。同郡大井野城は,柴田左京の拠りし地。後近藤升右衛門の居城となる。又井ヶ屋敷は柴田七九郎重政の居りし地にして,井ロ城に柴田伊豆守ありき。又二葉松に「大平村大平城云々 柴田右京 同藤三郎」また「柴田左京御当代九百石」と見ゆ。家譜に「小笠原大膳太央政康の三男左京友政を祖とす。その子左京政成(大平城)──左京政秀,弟丹波守政忠──郷左衛門政之──七九郎康忠(孫七郎五千石)──筑後守康長なり」という。家紋 下り藤の中に一文字 丸小三階菱 丸に五形と寛政系譜に見ゆ。また藤原氏なりしが林家継の後裔政之,外家の号を冒して柴田と称す」というもあり。家紋 丸に釘抜,三花菱。 (つづく) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で