集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「二代貞久と亀山城」(続 つくで百話)

ラグビー1211。 気温が高く,暖かい日になりました。  冬季の道路凍結に備えて,自動車のタイヤを冬用(スタッドレスタイヤ)に交換しました。  今日,東京・丸の内周辺で,ラグビーワールドカップ日本代表の感謝パレードが行われました。  沿道には,早朝から多くのファンが集まって,声援を送ったようです。  ネットやテレビで中継があり,それを視聴した方も多いことでしょう。    ◇ラグビー日本代表ONE TEAMパレードYouTube  テレビ東京スポーツ)  ラグビーへの声援が,“にわかファン”も一緒にさらに盛り上がっていくといいですね。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)その二           二代貞久と亀山城  貞久は貞俊の長男で九八郎,六郎左衛門,監物,最後に出羽守と称しました。応永二年作手で生れ,父老衰の後をうけて家を嗣ぎ亀山城に居ました。「南設楽郡誌」(以下単に郡誌という)は父貞俊と共に上州から来て川尻に居り,永享二年に亀山城に於て父の名跡を嗣いだと記していますが,どういう史料に依ったのでしょうか。  貞久は男子七人という子福者で,長男が三代をついだ貞昌,二男が石橋城主となった久勝,三男が額田郡夏山村を領した久正,四男が宝飯郡萩村を領した主馬允,五男が同郡佐脇村を領した信丘,六男が設楽郡名倉に侵出した貞次,七男が定包といった工合に,それぞれ各地に分置して族臣とし,その外に宝飯郡佐脇城主生田主計,作手北畑の領主兵藤太郎八を屈服させて臣下に加え,設楽郡黒谷郷主黒谷和泉守重広を招いて軍事相談役としました。  このように二代貞久の勢は隆々として上がり,その領地も拡大して作手三十六村(市場,須山,北畑,木和田,野郷,相月,寺林,赤羽根,小林,弓木,草谷,鴨ヶ谷,手洗所,岩波,田原,川尻,和田,見代,川手,杉平,田代,長者平,千万町,塩瀬,島田,道具津,川合,大和田,善夫,菅沼,黒瀬,御領,笠井島,小田,折立,粟島)及び額田郡宝飯郡の一部を領するに至ったと,「藩史」も「村史」も載せています。しかし右の内塩瀬,島田,道具津,菅沼,御領,小田,折立,粟島,笠井島などは,彼の時代では明かに菅沼氏の領分で,これを奥平領に数えるのは間違いです。  貞久は始め隣郷松平に興った,松平親長(家康の高祖父)に従いましたが,今川氏の勢力が東三河に滲透するに及び,今川氏親に与力し,奥三河に確固たる地盤を形成しました。  従って亀山城の規模を川尻城に比すると,はるかに雄大であり堅固であります。川尻城の南方ニキロ市場村の田園中にある城山と呼ぶ広さ約一万平方メートルの丘稜上にあります。平城にしては比高三〇メートルと立体的であり,山城としては余りに平面的で,さしずめ平山城とでもいうべきでしょう。中央に東西九〇メートル南北二七メートルの楕円形の本丸があり,周囲をめぐる土塁の東と西に切目があり,西口は方形の二の丸に,東口は北方長三角形の三の丸につづき,南方は東西に長い四の丸に連続しています。いずれも高さ四メートルの高い土塁でかこまれ,北方及び東方に小郭一,二が付属しています。北方古宮城に対する方面は切り立った絶壁をなし,その下を濠代りに小川が流れ,攀登は不可能です。 亀山城址1211。 地勢から察すると,その城の大手門は,部落に面した西側にあって然るべきに,それらしい痕跡がない処をみると,南側にあったのでしょうか。周囲は湿地帯で,濠の存在は明かでありませんが,たとえなくとも畦道伝いに行かぬ限り,城へは近接できません。城の西南に大堀切がありますが,東側へは貫通せず不可思議です。尚本丸址に大正五年県が建てた亀山城址の石標があります。  お城から少し離れて姫屋敷という地があります。ここは今,林地となっていますが,直径一メートル深さ三メートル程の井戸があります。お姫様といえば,六代信昌の妻となった徳川家康の長女亀姫のことかと思いますが,亀姫が嫁したのは長篠の役の翌年で,信昌が新城城主となってからです。彼女が果たしてここに住んだかどうか。そう言えば掘ればいくらでも水が出そうな地形でありながら,不思議と城内に井戸がありません。地形からみて姫屋敷は,杭を打ち鹿柴を構え,柵・塀を設ければいつでも城砦化しますから,亀山城の出丸的存在として,城主の日常生活はここで行なわれたかも知れません。恰もそれを立証するように,二代貞久はここで出生したという伝承があります。当城は貞久,貞昌,貞勝,貞能,一代とんで松平忠司(信昌四男)と奥平氏一六六年松平氏八年間本拠の城でした。貞久は文明七年七月四日八十一才の高令で世を去りました。法名大中道頓大禅定門。  貞久は七男を持ったという子福者ですが,長男貞昌は彼の五十六歳の子で,それから次々に六人も子をなしたという,精力絶倫の老雄でした。山本五十六元師の例もあり,老境になって子をもつ例は間々ありますが,彼ほどの精力者にどうして壮年時代に子がなかったでしょうか。或は夫人が虚弱のためか,それとも第二,第三夫人に至って始めて嗣を得たものか,夫人に関する記事は何もありません。女性は男と違い,あまり年をとっては子は産めません。  文安五年霊夢によって八幡宮を建立し,父貞俊公奉謚八幡宮といい,神田若干(八石三斗二升)竹木共に寄進したといい,これが今の川合村社八幡宮だといいます。墓は城外清丘の畑中にある一本桧の下にあり,塚上に一基の石塔があります。  亀山城は平地の城ですから,一朝有時の際最後に立龍るべき詰の城が必要です。それが須山の文珠山城で,平時は見張りとして活用しました。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【関連】   ◇日本ラグビーフットボール協会   ◇公益財団法人日本城郭協会