集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「田原歌舞伎」(つくで百話)

向日葵0803。 朝,昨日までの“暑さ”を感じませんでした。  風が吹いているわけでも,天気が悪いわけでもありません。湿度が多少下がっているからでしょうか。体が慣れてきているのでしょうか。  日中は,今日も猛暑でした。  明日も暑そうです。屋外の活動は,休憩と水分補給をこまめにしましょう。お気を付けください。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)の「文化財と信心」から紹介です。 ********     田原歌舞伎  歌舞伎は,江戸時代の庶民芸能の一つとし育成されたものでありまして,能楽人形浄瑠璃とならび三大国劇の一つとされています。文献によると,慶長五年(一六〇〇年)出雲の阿国の一団が「念仏踊」や「ややこ踊」をもって京都で興行して喝釆を博したのが始まりで,元禄時代富永平兵衛,近松門左衛門等の力によって脚本が発達し,科白劇(科と白)による演劇として完成されたといわれております。  この歌舞伎が何時の頃,田原にも移入されたかは明らかではありませんが,古老の話によると元禄の末期頃とも推測されています。  その頃の舞台は幕ずり(間口)六間,奥行五間,花道五間の建込作りでありました。照明のために松明を焚いた三尺四角のいろりが舞台の正面左右に設けてありました。明治時代になると石油ランプが使用されることになりましたが,昔は,かがり火をたいて演技をやりましたので,今日のキャンプファイヤーを髣髴されるものがありました。  回り舞台の装置もついておりましたが,明治四十二年頃,小学校改築用材にあてるためにとりこわされ,その後間口四間の舞台が建てられました。昭和十五年,皇紀二千六百年記念として,大昔の舞台と略々同じぐらいのものが建築されて今日にいたりました。  観覧席は,舞台正面の広場に,莚を敷き,周囲を莚や菰でかこみました。屋根は,矢張り莚でふいていました。後年になると天幕をかりてきて張ることもありましたが,星空の下で芝居見物をしたこともしばしばでした。  古老の口伝によりますと,元禄の頃氏神さまとして白鳥神社を奉祭することになったとき,氏子の弥栄を祈願して,氏子のある限り地狂言を奉納するととを誓いました。以来盛衰はありましたが,連綿として今日まで続いておりまして田原の歌舞伎狂言は,この土地にしみつきました。  明治末年から大正時代に演じられた村芝居は夥しいもので一々記録されております。殊に大正十年頃から十三年間連続興行されまして,これに使用した脚本,師匠名,開演年月日など細々記録されており,出演俳優の中には高名な芸能人の名前も散見されます。  明治時代の中堅リーダーは森梅治郎さんでありました。仝氏は振付け,義太夫にも勝ぐれた技倆をもっておられました。また中川忠三郎さんは舞台でも活躍されましたが絵画に特技をもっており,舞台装置に手腕をふるわれました。今日の田原歌舞伎保存若芽会はこれら先人の流れをうけついだものであります。  元来,歌舞伎の本義は,義理人情,勧善懲悪を通じて演劇芸術の高揚を目的とするものでありまして,わが若芽会も,この趣旨にそって運営されており,会長柴田豊三郎,顧問菅沼宇一,会員十三名で組織し,発足以来十年,毎年三,四回実演をしております。  昔から,作手郷は芝居どことして知られ,地狂言が盛に演じられております。川尻,長者平,市場,相月,鴨ヶ谷など隣接の氏神さまの境内には夫々舞台の設備がありました。毎年,氏神さまの祭礼余興として村芝居の興行があり,村人の唯一の慰安娯楽として重要な役割を果してきたものでした。  村芝居が催されることになりますと,親類縁者や友人に招待状をだじて呼びよせるのでいつも大入満員の盛況でした。村芝居の当日になりますと割子弁当といって,木製の弁当箱を拾箱ぐらいづつ詰めたものや,一升樽や一升徳利をかついで氏神さまの境内にある芝居小屋へでかけて,開幕一,二時間も前から割当られた座席に陣どって,持参した酒を呑み,弁当をたべながら,知り合いと賑かに談笑するのも楽しみの一つでした。  花道や舞台正面の高いところにはな(寄附金)のピラがデカデカと貼りだされました。はなの金額は実際よりも数倍高い金額が書かれていて,いやが上にも景気をあおったものでした。開演は大抵午後一時頃となっていましたが,準備に手間取って,一,二時間おくれることはザラでしたが,いくら待たされても文句をいうものは一人もありません。友人知己と和やかに語り,飲食をともにすることに最良の時を満喫しつづけるのでありました。  いよいよ開演となるとひいき筋に声援を送ったり,弥次をとばして観劇ムードは高調して行きました。そして時がたつのも忘れて舞台上の役者の演技に陶酔して,閉幕は夜中の十二時をすぎるのが普通でありました。  近年,映画,ラヂオ,テレビなどの普及によって歌舞伎ファンは大きく後退いたしましたが,数百年の伝統をもつ歌舞伎趣味は,庶民生活のうちに根強く生きのこっております。 (菅沼宇一) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で