集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「作手村長勲七等 峯田重憲」(つくで百話)

蜂0517。 天気の良い一日でした。  昨年度,ブログのなかで紹介した文集『こうやまき』(1970年刊)の作文を,新しいサイトに整理していきます。 ◇文集『こうやまき』  ○ 作手村のむかし 37本  ○ 村の行事 19本  ○ 生活の移り変わり 24本  ○ 父母が子どもの頃 20本  文集の副題は「子どもが綴った作手村風土記」で,およそ50年前の子供達が,父母や祖父母に聞いた“昔のこと”を作文にしています。  今では聞くことのできない“大昔のこと”を,今の子供達に伝えられたらと思います。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。(長文です) ********     作手村長勲七等 峯田重憲  作手村の初代村長をつとめた峯田重憲は,文久三年十一月二十二日小林村の源造の長男として生まれました。幼名を繁作,諱名を利家といいました。少年時代には杉平村の宗堅寺の礼州和尚の許で寺小屋教育をうけました。何年位,和尚の教育をうけたか詳かでありませんが博学の礼州和尚は,論語四書五経から十八史略日本外史まで教えてくれたそうです。後年重憲は村長として,いろいろな式典に臨んで式辞や祝辞を盛に朗読しておりますが,その文章は漢文調の美辞麗句で埋められていました。この素養は礼州和尚によって培われたものと思われます。 峯田0517。  父源造が高松村外三ヶ村戸長をつとめたり,愛知県第十三大区副戸長に任命されたりして,家業から遠のいておりましたので,百姓仕事は繁作が先頭にたって,男衆や女衆を指揮してやりました。頑健な繁作は,十四,五才のときすでに五〇アールの田んぽを午后三時頃までには備中でうち起すような頑張り屋でした。また木挽をすると二間挽くのが一人前の職人といわれていた当時五間を悠々と挽いたそうです。 (註) (長さ一間の板を巾二間挽くのが一人前)  当時,作手郷に,斉藤彦右衛門都利という日置流印西派弓術の名人がいましたので,繁作はその門人として精進し,間もなく免許皆伝となりました。臂力衆にすぐれていた繁作は,寸九の弓(巾一寸厚九分の弓)を自由に引きこなすほどの腕前をもっており,各地の弓道大会で的中した幾十を数える金的は,直径一メートルくらいの輪につないで土蔵の中に保管してありました。  明治二十年,父源造が引退した後,引続いて高松村外三ヶ村戸長に推薦されたのが,繁作の公務員生活の発端となりました。ここに若冠二十三才の戸長が生まれたのであります。仝二十二年,町村制施行に伴って,杉平外五ヶ村組合村長に当選就任しました。  明治二十三年十月三十日,東京で教育勅語御下賜の式典が挙行されたとき,青年村長繁作は勇躍上京して,その盛典に参列する光栄に浴しました。教育勅語は全文金玉の大文字で,繁作は深く感激いたしました。どの一節一句も国民の拳々服膺すべき大切なものと思われましたが,特に繁作の心肝にこたえたものは「国憲ヲ重ジ」の一節でありました。国憲を重んじることが日本国民に課せられた最大の責務であると痛感した彼は,即座に重憲と改名することを決意しました。憲を重んじるという趣旨だったのです。  重憲という名前の人が,これ以前にあったことを私はきいておりません。重憲と改名してから「家に男の子が生まれたから,ここの旦那様の名前をわけて貰いたい」といって命名された人を三名ばかり知っています。また東三河地方に五六名は同名の人があるのを知っていますが,何れも繁作の改名以后の人ばかりです。恐らく重憲第一号は繁作だったのではないでしょうか。  重憲は“しげのり”と読むことにしたから,繁作の“しげ”と相通じますので,近所の人々は“しげさ”または“しげさま”と呼んでいましたが世間では“じゅうけん”で通っておりました。名は体を現わすとか申されておりますが重憲の一生は遵法精神で一貫しておりました。違法の行為は断じてしないというのが彼の日常生活でありました。自己の身を律することが堅かったと同時に,他にもこれを厳しく強いましたので,予期せぬところに敵をつくったことも屢々でした。  杉平村外五ヶ村組合村長は,明治三十九年の町村合併までつづきました。その間に日清,日露の二大戦役が勃発しましたので,彼は文字通り寝食を忘れて銃後の奉公に精励しました。その功労により,日露戦役の後,勲七等に叙せられ青色桐葉章を授与せられましたが,彼は終生これを無上の光栄として感激しておりました。  村長としての重憲は,農林業の開発には鋭意努力いたしましたが,特に造林と産馬事業に心血を注ぎました。産馬については,優秀な三河馬の増産と改良につとめるため古橋源六郎と共に三河産馬組合を創立して組合長には古橋が据わり,彼は副組合長として,その運営にあたり段戸山駒ケ原に種馬所を設け,三河馬の育成に貢献した功績は特記すぺきものといえましょう。  明治三十一年同志と共に作手農林補習学校の設立を提昌し,その管理者として運営にあたりました。明治三十九年町村合併によって,杉平外五ヶ村組合役場,巴村役場,菅沼村田原村組合役場の三役場が合併して作手村が誕生することになりますと重憲は推されて初代作手村長となりました。  合併して広大な地域となった村内の融合統一については,幾多の難問題をかかえておりましたが,彼独自の寛容と粘り強さで着々と村政を軌道に乗せることができました。一方教育年限延長によって当面した小学校々舎の新増築も順調に完了して,菅守,高松,田代,旭の四学区では,広大の学林も設定きれて村政の基礎は次第にかたまりつつありましたが明治四十四年の秋に,全然予測されなかった事件が役場で突発しました。それは一吏員の些細な過失でしたが,それが原因で村長不信任の声があがると,多数の村会議員らの慰留の声にも耳を傾けず断呼辞職して野に下りました。明治二十年から始った戸長から村長への二十四年間連続した彼の公務員生活はここで第一巻の終りとなったのでありました。  当時新城町長をしていた太田徳次郎は,重憲を新城町助役に迎えたいと,再三懇望して来ましたので,彼も,とうとう新城町へ転住の決意をしました。そして,明治四十五年四月から二期八年間新城町助役として,四人の町長の下で働らきましたが任期満了となると,作手村出身で仝町書記をしていた杉浦彦次郎を後任助役に推挙して,再び作手村に帰りました。  新城から,郷里へ帰った重憲は,大正九年七月村会議員に当選し,大正十二年九月には前村長佐宗九一の後を承けて,作手村長に就任して再度村政に携わることになりました。  作手村役場は,合併当時は,鴨ヶ谷の甘泉寺の庫裡を使用しておりましたが,明治四十四年に長者平の舞台を改造して庁舎としましたが,村の発展と共に庁舎も狭隘をつげることになりましたので,昭和三年に,現位置に新築移転しました。  部落有林野の整理統一は,前任者の時代に村会の議決を経ておりましたが,その実施に着手して,これを完成したのは,重憲の村長在任中でした。あちこちの部落へ出張して,時には夜を徹して村民と膝つき合せて協議を重ね,妥結をみるまでには,五年有余の歳月を費しました。かくて昭和二年七月十日,公有林野整理統一完了の式典が盛大に挙行せられました。その日の式辞の中で重憲は次のように述べております。  (前略) 今や整理の結果千四百余町歩の内九百町歩を村有と定め,五百町歩を縁故者に分割譲与をなし,九百町歩の内五百町歩は使用条例を定めて関係区民に使用せしめ,他の四百町歩の内三百町歩は村直営林として経営することにいたしまして,すでに四ヶ年間に四十五町歩十六万八千五百本を植栽しました。また官行造林百町歩は三ヶ年間に四十二町歩に十二万六千本を植樹いたしました。(中略) また学校林は三百六十町歩で植林計画を進めつつありまして(中略) 村有林と学校林を合すれば壱千弐百六十町歩となり,将来本村は基本財産より生ずる収益を以って村費の大部分を支弁する時期が来ることを確信するものであります。(下略)  この部落有林の整理統一は重憲が,政治生命を賭した大事業でありました。これら村長在任中の功績が認められ,全国町村長会から自治功労者として表彰されたことと,大正天皇の御大葬と昭和三年今上天皇の御即位式に愛知県町村長会代表として参列したことは,前後三十年余に渉る峯田重憲の村長生活の終末を飾るフィナーレとなりました。  全生涯の半分を地方自治に携わった峯田重憲は昭和十七年八月九日,天寿を閉ぢました。彼の墓碑には峯田重憲源利家之墓と大書され,側面深く刻まれた利生院殿法山道憲居士の戒名がその生涯を象徴しております。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で