集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「米福長者」(つくで百話)

花0518。 曇っていた朝,日差しが出たかと思ったら曇り…。強い風が吹き,気温ほどには暖かさを感じられない日でした。  午後,映画愛好会の第2回映画鑑賞会でした。  有名なミュージカル映画をたっぷり楽しみました。長い作品でしたが,小さな子供達も作品に引き込まれていました。  来月は,ジブリ作品で楽しもうと思います。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。 ********      米福長者  昔,作手郷には米福長者,荒原長者,本宮長者という三人の長者がありました。この中荒原長者と本宮長者は,屋敷跡がのこっているだけですが米福長者については,比較的多くの資料がのこされております。米福長者は矢作長者,宝飯長者とならんで三河長者の一人でありまして,お互に姻戚関係がつづいておりました。  米福長者は,太古の時代から作手郷に強大な勢力を張っておりまして,日本武尊が御東征の途次長者の家へ立ち寄られ,鏃を沢山つくらせられたという伝説もあります。千有余年つづいた米福長者も戦国時代に武家に搾取されて没落の悲運に遭遇しました。落ちぶれた長者の子孫が川合に住んでおりましたが,応永三十四年(今から五百六十年位前),亀山城主奥平貞俊公の手で討たれ,川合の坂峠に葬られ,豪族米福長者の家系もここに終止符をうちました。  米福長者の屋敷は,今の大字高里字木戸口一帯をしめており,一辺が一〇〇メートルから一二〇メートルもある広大なもので,峯田早苗さんの家のある辺がその中心でありました。金山神がまつってある附近に鍛治工場がありまして,先年土地整理をした時に夥しいかなくそが堀り出されました。また長者屋敷から約二〇〇メートルくらい南東方にあるハ幡社の森は,長者が酒糟をすてたとこといわれております。  明治以前には,正眼寺の境内に小さな社殿があって,そこに阿弥陀如来と米福長者の木像がおまつりしてありましたが,御維新後,神仏混淆が禁じられましたので,この社殿をとりこわし,米福長者の木像は,十二所神社の社殿内にうつして安置されております。社殿をこわした時に,屋根裏から一枚の木札がみつかり,それに次のようなことが書いてありました。    うるし 千へん 朱千へん 黄金千へん    朝日さす 夕日かがやく よし三本の    本にうずめおく  この木札をみつけて,村中は大騒ぎとなりました。武家の圧迫をうけて,長者の家が没落する前に,長者が子孫のために財産をのこしてやろうと思って,どこかに財宝をかくしておいたのに相違ない。その場所は,朝日さす,夕日かがやくとあるからには糟塚のあたりであろうということに衆議一決しました。  予期しない埋蔵物のあることを知った村人たちは,糟塚の木を伐って酒を買い,これで気勢をあげ,発掘にとりかかりました。村人らが二日,三日と掘りつづけましたが,黄金一へんもみつかりませんでした。  この糟塚の森に八幡様がおまつりしてあり,その傍らに,高さ五〇センチ奥行四〇センチくらいの石の祠が二つ安置してあります。この石祠は米福長者をおまつりしたものといわれ屋根のハフには菊のご紋がほってあります。明治維新後,みだりに祠などをまつることを禁じられましたので,これを十二所神社の境内にうつして合祀することにいたしました。その後,長者平部落で頻繁に火災がおこり,お寺も民家も焼けました。これは隣接の部落にもひろがりましたので部落民は,八幡様や長者祠を動かしたたたりと恐れて,また元の糟塚へかえしたということです。  毎年旧霜月の酉の日の夜中に,米福長者の屋敷趾で賑かに大勢の人の語り合う声がきこえるといわれておりました。長者の鍛治工場で使ったといわれるフイゴ,手打ち槌,向い槌,金床などが峯田早苗家の土蔵にのこっていましたが,金床は太平洋戦争のときに供出し,フイゴ,手打ち槌は紛失して,今は向い槌だけが残っておるとのことです。  長者屋敷の金山神をまったところに,大きなカヤの木がありましたが,昭和二年頃県道改修の邪魔になるというので,カヤの木はきられ金山神は,現在のところに移し,そこに二代目のカヤの木が植えられました。幾百年を経た長者屋敷のシンボルであったカヤの大木は,ついに,この世から姿を消してしまいました。 ******** 【「つくでの昔ばなし」掲載】   ◇「米福長者(よねふくちょうじゃ)」 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で