集団「Emication」別館

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「歌人政冶家 原田紋右衛門直茂」(つくで百話)

花0515。 雨は上がりましたが,「晴れ」にはならず曇りの一日でした。  曇っていても気温は上がり暖かい日でした。“”が近づいています。  今日,作手総合支所へ“地域のこと”の報告と相談に出かけました。  「○○の担当は△△課で,○○費は…。」と説明があり,執行は支所で行っていました。  おそらく△△課では,大きなA,B,C…に比べ小さく,たくさんの中の一つです。  古に築から先人が繋いできたことも,「今は小さな“こと”」であり,担当の順位も低いことが想像できます。  さて,どうしたものか…。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。(長文です) ********     歌人政冶家 原田紋右衛門直茂  原田紋右衛門直茂は慶応元年十二月六日守義村御領の旧家原田紋十郎直正の三男として生れました。母は丈子,鞘江という雅号をもつ才女でした。紋右衛門の文学的才幹は,多分に母の素質をうけついでいるようでした。長兄,次兄が相次いで夭折しましたので紋右衛門は生れながらに相続人となりました。 原田0515。 彼は資性温厚で俊秀,つとに神童の誉高い少年でした。明治五年に学制が頒布せられまして守義学校が,村社の下方,神谷憲太郎さんの横の畑に設けられましたが,学校とは名ばかりの寺小屋式教育をやっておりました。紋右衛門が入学した時の教師は,徳島県出身の富沢衍吉という篤学の士でありました。教室に於ける彼は,よく机をたたいて遊んでいるので教師が叱ると 「先生は,わしが知っていることばかり教えているから退屈で困る」と答えていたそうですが,利溌な彼の学問は,どんどん先へ進んでゆくので,同年輩の少年との間に格段の差がついてしまいました。当時は,四年卒業制でしたから,卒業後は,家庭教師として竹尾正久という人を招聘してその指導をうけました。竹尾正久は,八名郡賀茂村の出身でしたが,国学者として高名であった従四位大国隆正翁の門人で賀茂神社の神官をつとめていた篤学者でした。竹尾は,原田家に寄寓して神道国学及び和歌の指導にあたりましたが彼の進境は眼をみはらせる程のものがありました。彼は十二才のときに和歌を詠みはじめましたが,明治十六年に発行された豊川年浪集には,十五才の直茂少年の歌が掲載されております。  彼は敬神の念厚く,愛国の至情に燃えておりましたが,これは竹尾の指導により培かわれたものと思います。神道の研鑽につとめた彼は,明治二十年には神宮教権少講義という神道の職階を授けられまして,順次昇級しております。  ある年,大国隆正翁が原田家を訪問されました。かねて,師の竹尾正久を通して,その高名をつたえきいていた,犬先生が,みえたので彼は深く感激して,その接待にあたりました。早速,鳴沢の滝の絶景を探勝していただき,ともども一首詠むつもりで案内いたしましたが,隆正翁が即座に,実に見事な歌をつくられたので,彼は呆気にとられて,何もつくれなかったと述懐しておりました。  地方自治に関しましては,明治二十一年三月菅沼村外三ヶ村戸長に任命されました。仝二十二年町村制実施に伴い,仝村長に当選して,二期連続つとめましたが,その任期満了と共に斉藤紋三郎と交代いたしました。  明治二十四年には南設楽郡会議員に当選して参事会員を兼任しました。郡会議員には,その後三回当選しております。  明治二十五年には,若冠二十七才で愛知県会議員に当選しましたが,二十七年の半数改選で退職いたしました。  県会議員在職中,枢密院副議長東久世通禧伯か愛知県へ出張された時には,県会代表として静岡まで出迎えておりますが,彼はつとに和歌を通じて東久世伯とも親交を重ねておりました。東久世伯出迎への時に,彼は二等切符をもって列車に乗込みましたが,伯が一等車に乗っておられたので共に一等車におさまっておりました。たまたま車掌が検札にまいりましたが,当時知名の東久世伯と談笑している彼に敬意を表してか彼の検札はしなかったそうです。若年議員ながら,彼が堂々の風格の持主であり,県議会に於ても相当の活躍をしたことがうかがわれると思います。  彼は,和歌を通じて天下に名声を馳せており,明治二十五年十月石丸忠胤の撰になる明治百人一首には三河原田真茂として入撰しております。これには由利公正,千種任子,岩下方平,税所敦子,松浦詮,木村正辞,谷勤,毛利元徳東久世通禧,伊藤裕命,坂正臣,高崎正風,鈴木重嶺,松平慶水,矢野玄道,久米幹文,本居豊頴,小池道子,三条実美等日本歌壇の代表的人物を網羅しており,各人自筆の歌と寺崎広業画伯の筆になる肖像画がのせられております。直茂の歌は      題名所帰雁   いづくにかかりは行くらむよしのやま      このゆうはへのはなをみすてて でありました。  直茂の歌集としては,大八洲名所歌集,皇国詠史歌集,征清歌集,木々の美登里等があります。彼の遺稿改元要覧は未刊のまま原田家に保存されています。彼の作歌は,単に花鳥風月を詠じたものばかりでなく,彼の尊皇愛国の至情を吐露したものが大半を占めております。  彼は歌道に精進する傍ら国史国学に深い関心をもって,その研究に没頭しました。若冠の頃から敬神の念が厚かった彼は,惟神の道にも志し研鑽をつづけました。明治二十九年には,皇典研究所から学階五等司業を授けられました。大正九年十月には守義の白鳥神社の社掌を拝命,また郷社島田神社の社司を兼務しました。この外村内三社の社掌もつとめております。国学の造詣深かった彼の祝詞は,まことに洗錬された立派なものでありまして,北設楽郡稲橋村の郷社ハ幡神社の社司佐藤清臣のそれと並んで三河国神職界で定評のあった程の名文でありました。  明治三十一年頃,菅沼村長原田市三郎等と共に実業教育の必要を提唱して,作手農林補習学校の設立発起人となって奔走いたしました。現愛知県立新城高等学校作手分校の前身となった作手農林補習学校は,県下農業教育界の先鞭をつけて設立をみるに至ったのでありまして彼の進歩的英知がここにもうかがわれるのであります。  彼は,夙に知已を天下にもとめんと志して遠く脚を東京,京都などにのばして名士の門をたたきその教えをうけると共に深交を結んでおりました。北設楽郡稲橋村の素封家であり勤王志士として知られていた古橋源六郎輝児とその長男源六郎義実の父子とは水魚の交りを結び足しげく古橋家の門を叩いております。義実は仝家に秘蔵していた楠正成公旗指物五流の中の一である「天」の一字の旗と太閣秀吉が聚楽第後陽成天皇行幸を仰ぎ諸大名を招いて,大茶会を催した時に使用したという萩の名工左門作の茶碗を彼に贈与しております。この茶碗の内側と外側に秀吉の家紋である桐の紋の印があり「相の紋の茶碗」と申されております。この茶碗について,当時の東京帝室博物館の係員が,間違いなしと証明したという古橋源六郎の書面もついております。楠正成自筆の文字がのこり,戦場往来を物語る矢傷のある軍旗は,またと得難い文化財でありますが,今でも原田家の家宝として保管されております。  明治三十八年守義郵便局長に任命された彼は大正九年まで局長をつとめました。また大正二年には守義木和田信用組合を設立して,その組合長となりまして運営に当りました。彼が地方自治,産業の発展に寄与した功績は広く且大なるものがありましたので,関係官庁や所属団体から表彰されたり,感謝状を授与されたことは枚挙に暇ない程であります。  守義の部落はずれに,作手名所の一つである鳴沢の滝があります。段戸山を水源とする清流が緑の山峡に綜々の音をたてて流れて,ここまでまいりますと十数メートルの断崖から一挙に落下する大きな滝となります。水量豊かな滝水は,途中の岩石にぶつかって飛沫となり,どうどうという物凄い滝の音が周囲の山峡に谺して鳴り響いている景観は,絶讃に値するものがあります。この滝壷の,すぐ上手に鳴狭橋という橋が架かっておりますが,この鳴狭橋の名命は彼がしたものであります。  また守義の寄田には二股になっている黒松の大木があります。東側の幹は目通りの周囲四メートル,西側の幹は周囲三メートル五〇,実に見事なもので,風が吹くと,琴の音のような響きを奏でるというので,この松の樹も「琴音の松」と直茂が命名しました。鳴狭橋といい,琴音の松といい彼の国学者的センスがうかがわれる名称であると思われます。  明治時代には各村々が盆歌をうたって菩提寺である菅沼村の楽法寺に練りこんだものですが,その時に,直茂は,新精霊様を偲ぶ歌を創作して若い衆に歌わせましたが,これが素晴しいできばえであったから,他村のものは鳴を静めてききいり,毎年大評判になったときいております。  彼は稀にみる愛酒家であり,酒豪でもありました。山海の珍味が並べられても,これにパクつくようなことは決してしませんでした。膳にもられた珍味佳肴を眺めながら,チビリチビリと杯を傾ける晩年の彼は,実に愛すべき好々爺でありました。酒が体に回ってくると,一段と明朗快活になり,惟神の道,皇国史観,特に勤王志士の話などを滔々と語るのが常でありまして,国学者原田直茂の面目躍如たるものがありました。  直茂は蔵書をこよなく愛しました。屋敷の一隅にあった土蔵の二階を改造した書庫には,数多くの書架がならんでおり,三千五百巻ばかりの蔵書が整然とならんでおりました。彼は,晩年になっても抜群の記億力の持主で,何列目の書架の何段目,どの辺に,どんな本があるかをチャンと記憶しており,近所の人たちも,これには舌をまいておりました。  大正十二年一月二日,修養団作手村支部の青年が古橋源六郎の墓参りのため雪中行軍を計画しました。当年五十八才であった直茂は「俺も参加する。」と申込んできました。その日は降雪霏々としてとび,文字通りの雪中行軍となりましたが,若いものに混じった彼は片道二十五キロメートルの山坂を元気に突破しました。そして稲橋の宿舎で開かれた古橋源六郎翁を偲ぶ会では,古橋家の人たちや土地の有志数十人を前にして,故人を偲ぶ懐旧談を堂々とやって会衆一同に深い感銘を与えました。郷土の偉人古橋源六郎と深い交りを結んでいた彼の演説は,言々切々真に迫るものがありました。 原田0515。 明治大正の二代にわたり歌人として名声をはせ,作手村の開発に,大きな足跡をのこした原田紋右衛門直茂は,惜しくも昭和三年八月九日天寿を終え,伍領(註昔の御領)共同墓地に葬られました。その墓碑の正面には原田直茂大人之墓と刻まれ,側面に,明治百人一首にのった彼の作歌が刻まれてあります。    いづくにか 雁はゆくらん 吉野山     このゆふばえの花をみすてて            直茂 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で