集団「Emication」別館

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「名誉村民第一号 佐宗九一」(つくで百話)

空0507。 朝から青空の広がる日でした。

 でも,朝の気温は昨日より低く“肌寒い”感じでした。10連休明け,夏服で登校する中高生が寒そうにしており,「まだ早かったかな」と口にしそうに見えました。

 日中は気温が上がり暖かくなり,青空をバックに積雲が輝いて見えました。夕方,冬服の中高生が暑そうに下校していました。

 10連休明けの今日,どんな一日でしたか。

 『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。(長文です)

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    名誉村民第一号 佐宗九一

  ◇まえがき(写真に寄せて)

佐宗九一0507。 作手村役場第一会議室の正面に名誉村民章をつけた佐宗九一翁の写真が掲げられている。

 佐宗九一翁の写真は,私もこれまで数多く見ているが,この写真が一番好きである。豊かな銀髪,魁偉な容貌,そしてその奥底には天衣無縫,豪快な気魄が満ちあふれている。

 この写真のイメージからは,屢々世の大政治家,芸術家,哲学者などの風格もしのばれる通り佐宗九一翁は高度な人間性に恵まれた天分を持って専ら県政と吾が作手村の為めにつくされた偉大なる庶民政冶家であり,同時にまた親しみ深い吾等の親分でもあった。

    (作手村議会議長 鈴木太富)

  ◇翁の人となり

 佐宗家は,佐宗大膳の末裔といわれ,臨済宗永源寺派,金峯山法輪寺檀家である。過去帳によると,初代と思われる「正源院作達定宗居士」(年号不詳)から数えて四代目と推定される。「太良右エ門」の母の命日が万治二年十一月六日,と記されているので,凡そ,今から310年前にあたる。従って初代から概ね五百年余となるわけである。

 佐宗九一翁は,明治三年五月二十九日,伊那県設楽郡戸津呂村において,父佐宗文治母ための長男として出産されたのである。

 その性極めて寛裕であって,人となりも簡要淡泊,大まかに見えて物事にけじめがあり,あっさりしてはいるが,世利に心を動かされない。誰にでも穏かな,こだわりのない態度で接しられるが,間違っておると考えられることについては断呼として激論された。天資また,かっ達洒落どのように激論されようと,後には少しも残されない。光風霽月,恬淡たるものであった。

 然も節を持せられること堅忍,抗直飽くまでも非に抗し,正を貫くに熱意を示されたのである。

 後に記されるように,村会議員,郡会議員,県会議員,村長,農会長を始め,各種団体長等延百十三年に達する公職に専念されたのであったが,翁が,遠識弁胆の才をもって,目の前の小事に拘ることなく,遠く大事を見るの見識をもって,弁舌よく衆を度して地方の福祉増進を図られたものは,全く甚大なものであり,道路の開発に偉大な功績を立てられ,農産業はもとより教育行政の上に稗益されたことも亦,計り知れぬ大きなものである。

  ◇少年時代

 明治五年八月,太政官布告によって学制が定められ,私塾が禁じられて義校となった頃,村内に第十一番小学川手学校他二校が誕生し,更に,川手学校から杉平学校が派生した。

 明治十二年には保永学校が設立されているので,翁は,派生した杉平学校と,保永学校の二校で三か年間の小学教育を受けたのである。その時代の教育方針は,実利,功利主義の思潮教育であったと記されている。

  ◇青年時代

 明治維新の大業によって,永い間の封建政治が破られ,自由民権の新しい運動が熾烈を極め,喧々ごうごうたる世論の中に,大きな改革が次々に行なわれつつある時,翁は少年時代から青年時代を迎えたのである。

 明治二十八年,若冠二十六才にして,地方開発は先づ道路の開設からと,その念願を抱き強い決意をもって,新城挙母街道の開発を志し,自ら卒先先頭に立って沿道各町村に呼びかけ,同志を糾合し足助町において,新城挙母線改修期成同盟を結成し,ここに政治活動の第一歩を踏み出したのである。

  ◇その政洽生活

 その政治生活の大要を記して見ると,

自明治三二・九 郡会議員六回当選,通算十七年六か月,

至大正一二・三 此間副議長四年三か月,議長 八か月

(略)

自大正 八・九 愛知県議会議員当選五回

至昭和二二・一 通算十九年四か月

 此間,県参事会員四回

 以上,主要公職通算百十三年という長年月に亘るのである。如何に地方の信望が厚かったか,その業績のどんなに大きいものであったかを知るに十分である。

  ◇殊に著しい業績

 そのうち,殊に,業績の顕著であったものを挙げて見ると,ただ作手村のみでなく,郡,県に及ぶ広域において,自治行政の進展,地方産業の開発に尽された功績は,まことに甚大なものがあるのである。

 特に,九一氏が道路翁とまでいわれた程,道路開発に力を入れられた業績は大きい。

一,作手村地内における道路開発

(略)

二,公有林整理統一

(略)

  ◇特筆すべき言行の一端

 翁はまた,豪爽な,気性のさばさぱされた中に,時に英発する天資を持っておられ,機に応じて弁舌を巧みに用いられ,他の意表をついて瞠若せしむるような言行が,しばしば見られ,才気煥発白猿と称して狂俳をよくせられ,老境に入っては書を能くされもしたのである。

 かって,同僚県議神戸真氏と論争,激怒した際のことである。

○勘弁(神戸)ならぬ と怒って見たが真にあやまりゃ許してやろう。 の一句を吐き呵々大笑して無事おさまったという。

 また,県議に初当選の喜びを選挙事務所で,

○苦銭(九銭)と知りつつ立った私も

 一戦(一銭)勝って当選(十銭)しました。

 県議団代表として,中華民国視察に行ったときのことであるが,船中から使りの一句,

○ほんに私も年とりました。船に寝てさえ帆を上げませぬ

 豪放磊落な翁のうたにはこんなのが多い。

 村長当時職員の平松書記に寄せたものに,

○平松の下に生えたる松茸は,太く短かく姿たくまし

 更に,職員が治療のため入院の際,

○真剣で(信玄病院──花柳病専門)万年筆の手入れして冶った後はかいて楽しめ

 然も,翁の大酒は有名のものであり,盃を重ねるに従って奇談,猥談処きらわず飛び出すのが常であり,興ずるに及んでは奇行も亦常とした。

 酔中陶然の境に達するや,股を開いて,睾丸を現わし,皮を広げて酒を注がせ,これを飲め,と芸妓を揶揄う癖があった。

 ある席でこれをやっら,花丸という若い妓がおり,出されたばかりの熱燗をどっと注がれ,あついッとばかりとび上った,という逸話もある。

 しかし,どんなに酔っても油断できない翁であり,たまたま御意に障る言動があると,大喝,騒乱の座をして粛然たらしむる気魄を示すことがあり,皆んな用心したものである。どうしたものか泥酔して寝るとき必ず枕の下に財布の金を全部並べ敷き,豪快な大いびきを立てて眠るのが常であった。

 平素は全くの好々爺であり,村の人達がよく「九一様に出合うとはずかしい。」といった。それはいつ行き合うときでも,遠くから帽をとって頭を下げていねいに挨拶される。いつもこちらが後になるのではずかしいというのである。

 また,人に物を頼まれるとき,必ず「ハイヨウゴザンス」と,軽くひと言,どんな些細なことでも,このひと言があった以上,必ず実行されるのを普通とせられた。

 流石の九一翁も,「ハイヨウゴザンス」の言えないことがあった。それは,旧千郷村の片山,白鳥神社の総代の方から,社名の揮毫をたのまれた時であった。翁は,しばらく待って貰い,七十の手習いを始めたのである。猛稽古の未立派に書き上げて送った。という美談がある。

 翁にはそのような実直な,素朴な一面もあったのである。

 御令息の史量氏が,助役,議長,村長など八年十一か月に亘って勤められたのであるが,その間公務に追われて,史量氏の帰宅はいつもおそくなり,大抵九時から十時になるのが常で,時には十二時を過ぎる日もあったが,翁はいつも女の人たちを早く寝かせ,自ら風呂を暖めて待っておられ氏が帰えられると「ご苦労だったのん」と,温い言葉をかけてくれた,という。史量氏が,いくら遅くなっても帰宅された蔭には,こうした翁の生きた教訓があったのであろう。

  ◇終りに

 これは余談でもあるが,昭和十八年五月二日の日,隣家から火災が起こって類焼するという厄に逢い,一切の家財を焼失されたのであったが,焼失した中には家宝として大切に保管してあった,西園寺公望公や乃木希典大将の名書始め,数々の有名人の書や画が沢山あったとのことであるが,惜しまれてならぬことである。幸い,西園寺公揮毫による扁額一面は,翁の寄贈により現在協和小学校に保存されているとのことである。

 翁は,以上のような大きな業績をのこし,数々の逸話を遺しで,昭和二十六年四月六日,享年八十二をもって生涯を終られたのである。

   (加藤淳

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