集団「Emication」別館

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「太古の作手郷」(つくで百話)

花0418。 風が穏やかで,日差しもあり,暖かい日でした。  山野草にも,花が目立つようになってきました。やっとがやってきたようです。  先日から掲載の『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)の本文(?)を紹介していきますが,その前に「目次」を載せます。
   目次 ○ 村の起原と人物(22項目) ○ 昔の行事(4項目) ○ 文化財と信心(29項目) ○ 川に因んだ話(15項目) ○ 山に因んだ話(9項目) ○ 怪奇物語(11項目) ・ 作手数え歌・盆踊・民謡 ・ 作手地狂言の名優たち ・ 作手歌舞伎六人衆
 『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から最初の紹介です。 ********     太古の作手郷  考古学者の説によりますと,今から約1500万年前,所謂新三紀中新世の終り頃には三河湾は,豊川,新城,鳳来寺,設楽,伊那谷を経て,飯田と諏訪の中間辺まで入りこんでいたそうです。一方伊勢湾も尾張平野から,木曽谷を多治見,飯田と入って,伊那谷から来た入江と連なっていたそうです。その頃は,段戸山を中心として南の本宮山,雁峯山,西の方は瀬戸附近までが,円い島のような形で,海上に浮んでいました。雁峯山の南麓などには,太平洋の白波がしぶきをあげていたことでしょう。後世,作手三十六地獄といわれた部落の中に新城市の臼子部落が入っているのも太古から,作手と深い関係のあったことを物語っていると思います。  深い海底にあった鳳来寺山,鞍掛山,岩古谷山など一連の火山が爆発して,千メートル級の高い山が続出した地殼変働期には,作手郷にも泥水が渦巻き流れこんできたことでありましょう。そして,作手高原の湿原帯が形成されたものと思います。地殼の変動は,その後数回くりかえされたそうですから,田原部落の平原に繁茂していた大木は,軟らかい地盤の上にたっていましたので,次の泥水のために押し倒されて地中に埋没したのではないでしょうか。これらの大木を倒したのが泥水だけでなく東南方から吹きつけた台風も加っていたかも知れません。太平洋戦争後,田原部落の河川改修をしたときに,巨大な埋木が沢山発掘されましたが,それらの埋木が皆西北に向いて倒れていたことは,興昧ある問題だと思います。  市場,鴨ケ谷にできた泥海には葭(よし)や羊歯(しだ)が樹木のように大きく繁茂しては腐っていたことでしょう。太平洋戦争中,木炭の代用として使用された草炭は,これらのよしや水草の変化したものでありましたし,後世,人類が,この辺に生活するようになってから起きた地殼変動のときには,この草原に,再び泥水が流れこんできたので住民は大混乱にまきこまれたことと思います。そして,自分の持ち舟のあったものは,命からがら舟に乗って逃げ出したけれども,舟のないものは泥海の藻屑となってしまいました。ノアの洪水の惨劇は,中近東の国々ばかりではなく,日本の作手郷にも突発したものと思います。  兎に角,作手郷は,太古の時代から湿原地帯が多かったようです。湿原地帯のことを方言でグテといいます。ある民俗学の研究者はつくでという村名は,グテの転化したものだといっています。その説明によりますとグテの頭に,ツという接頭語をつけて,ツグテとなり,それが発音の便宜からツクデと転化したというのであります。これも一考に値する説と思います。  一般に流布されている説は,須山の善福寺に安置されている聖徳太子の作られた日本武尊の御像の手がこわれていたので,真済僧正が補修したので,即ち手を作られたから作手と称することになったというのであります。  とにかく,作手郷という名称は,千数百年来人口に膾炙されたことばでありましたが,明治三十九年の町村合併によって,作手村という一行政区が誕生して今日に至ったのであります。 ********  「作手・つくで」という名の由来を二つ述べています。  湿原の多い地区からの説,日本武尊聖徳太子からの説,いずれも当地の特徴・歴史であり,“確からしく”思います。  本書の後,由来を研究された方があるか承知していませんが,興味深い話題です。 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で