「戦争中の食物と農民たち」《父母が子どもの頃 8》
天気がよく,外に出るのに上着を忘れても大丈夫な気温でした。でも,長くいると寒さがありました。
「再び寒く…。」と予報は伝えていますが,もう“冬の寒さ”や“降雪”は心配しなくても大丈夫そうです。
ニュースで「はしか患者の増加」を伝え,予防の呼びかけがされています。田舎で切実感なく過ごしていますが,気づかずに“感染拡大に手を貸す”ことになってはいけません。年齢と記憶では“大丈夫”とは思いますが,念のため抗体検査をしておくとよいかと思います。
みなさんは,ワクチン接種や抗体検査をされていますか。
読んだ雑誌,原稿に,気になる文章がありました。
メモとして
○ポジティブに受け取れる人は,一体何が違うのだろうか? ポジティブに考える(受け取る)には,一体何が必要なのだろうか? ○YouTubeで学べる機会が増えた。独学で学ぶ意欲的な人は昔もいたし,今もいるだろう。そして,これからどんどん増えるかもしれない。 でも,そうでない人が本当にたくさんいる。これからも,いなくはならないだろう。 YouTubeで頑張れない(学べない)タイプの人が仕事をするには,どうしたらよいのか。 ○教科の名前を銘打った学会がある。その多くが,昭和20年代後半に生まれた。 (※ 日本数学教育学会が大正8年設立。例外的に早いのはなぜ。) ○「あなた」しかできない研究テーマを持つべきです。文集「こうやまき」(1970年・刊)から,「父母が子どもの頃」の一話です。 ******** 『戦争中の食物と農民たち』 (文・協和小6年 男子) 今ごろ,毎日のようにテレビや新聞で“米が余っているから,田を減らすよう”に言っている。そして,十アール減らすと四万円くれると言っている。 ところが,その米が,昔は 作っている農民でさえ食べれない時があったのである。おばあさんの話によれば,戦争中は特にひどく,ずい分苦労したそうです。この頃は今と違って,山やぼたの草を刈り,それを肥料にしていた。だから,米は今の三分の一位しかとれず,それを補うために農民は ひえやあわを作った。あわ,ひえと言えば,今の鳥のえさである。そんな物をご飯に入れたり,おかゆにしたりして食べた。その時分の人たちは腹がヘるから食べるのであって,うまいとか,まずいとかは,考える余裕がなかったそうだ。だから,今でも時々おばあさんは“よく食べたものだ”と言う。 このように,あわ,ひえ,小米,野山の若草,木の芽などを食べて暮らした戦争中は,今のように自分の家で,いくら米を供出する,と申し込むのでなく”何俵出せ”と命令的にきて,その年にいくらとれなくても,出さなければならなかったそうです。だから,農民でありながら,米が食べれない年もあったのです。また,砂糖や魚などは,“お前の家の人数は 何人だから これだけ”と言って配給した。配給するものが不足してくると,部落の人たちは くじを引いたりして,当たった人だけが持ち帰って食べた。 そして今は,一生けんめいくふうし,自分に与えられた農業で,お金をもうけようとしても,米はいらないと言う。百姓は,昔からいい時がなく,かわいそうに思う。だから,これから農民になろうとする人たちは,この辺のところをよく考えてからやらないと いけないと思う。 ******** 文集が発行された頃,日本の稲作は,「減反政策」により作付けが年々減っていく時期でした。 戦争中の食糧事情を聞き,小学生が,社会の状況へも目を向けて綴っていることに意味・意義を感じる作文です。 今,学校で子供達が書く文章・作文は…。