集団「Emication」別館

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『十三歳のあなたへ 一九四五・八・七「豊川海軍工廠」の悲劇』(牧平興治・編著)

花0912。 雲の厚い日で,時々強くはないけれど雨が降ってくる一日でした。  雨が続いて日差しが久しくなり,「寒い!」と口に出る気温です。長袖をはおって過ごしました。半袖には戻れないかもしれません。  さて,明日は…。  “戦後の夏”が過ぎ,9月になりました。  この夏,『十三歳のあなたへ―一九四五・八・七「豊川海軍工廠」の悲劇』(春夏秋冬叢書を読み直しました。  知っているようで知らない“戦争”の一つです。  今年,豊川市豊川海軍工廠平和公園を整備し,公開(?)しました。その豊川海軍工廠で起こったこと,当時の社会状況を含めた記録です。
 豊川海軍工廠は,日中戦争から太平洋戦争へと戦局が進む1939(昭和14)年12月15日,全国で6番目の海軍工廠として開庁しました。海軍の航空機や艦船などが装備する機銃とその弾丸を主要な生産品とし,最盛期には5万人以上の人々が働く巨大兵器工場でした。  しかし,1945(昭和20)年8月7日の空襲で壊滅的な被害を受け,そして終戦により兵器工場としての短い歴史を終えました。戦後,空襲の悲劇は,悲しい出来事として多くの人々の記憶に残り,語り継がれてきました。
 豊橋市の前芝中学校正門の横に「霊碑 豊川工廠戦没学徒之碑」があり,市内ではこの碑だけだそうです。  著者の牧平氏が,そのことを知り,資料を調べ,関係者への聞き取りがまとめられています。
 息子や,娘,学区在住の若者たちに聞いてみても「そういえば校門のところに何かあった」という程度の認識です。一体これはどういうことでしょう。  「なぜ,このような悲劇がおこったのでしょう?」  「なぜ,知らされなかったのでしょう?」  この疑問について,わたし自身もまず知りたいと思いました。そして,「豊川海軍工廠」の悲劇の真実を,犠牲になった10名と同じ世代のあなたたちに,もっと詳しく知ってもらい「語り継いでいく」ことこそ視写への鎮魂になるとおもいました。
 彼らの地と涙の代償として基本的人権をはじめとした民主主義を手に入れたことを忘れているかのようです。  前芝国民学校の生徒の尊い命が散った事実を決して無駄にしてはいけないと,わたしは繰り返し叫びたいのです。そして,学徒たちの父母の悲しみがいかばかりであったか,彼らの無念の思いを今一度想像し思いを馳せていただきたいと思います。
 “若者”の思い,将来への夢,豊川海軍工廠で亡くなった方々は突然失いました。  「そういう時代であった」では済ませたくありませんし,再び迎えてはなりません。  当地の子供達が訪ねられる場所で起こったことを語り継ぐのは“戦争を知らない子どもたち”の責だと思います。  その情報・知識を,本書から。
   目次 口絵 はじめに 海軍工廠国民学校 予科練と徴兵 学徒動員 豊川海軍工廠爆撃 生き残り学徒の証言 悲劇の原因と記録 悲劇を伝える 前芝国民学校以外の海軍工廠体験 おわりに 十五年戦争の年表 もっと詳しく知りたい人のために(参考・引用文献) 讃
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