新城市平和祈念式典
朝から天気のよい日で,暑い日でした。
午前中,第1回新城市平和祈念式典があり,後援する新城市遺族会の役員として参加しました。
昨年度までの戦没者追悼式を“新しい形”にかえて,第1回の“平和を祈念する場・時”としました。
会場の新城文化会館小ホールは満席で,立ち見で参加していただく状況となりました。
市民・遺族会員へは
戦争の犠牲となられた方々の御冥福をお祈りするとともに,悲惨な戦争の教訓を風化させることなく平和の尊さを若い世代に語り継ぎ,戦争放棄や恒久平和について改めて学ぶ機会として行うものです。 このたび新城市では,戦没者への慰霊とともに戦争の悲惨さや恒久平和について次世代の人々に語り継いでいくことを目的に「新城市平和祈念式典」を下記のとおり開催いたします。 これは,戦後70有余年が経過した今日,戦争の記憶が薄らいでいってしまうことのないよう,また,平成27年10月に「新城市平和都市宣言」を制定したことを踏まえて,従来の「新城市戦没者追悼式」を遺族会役員の皆さんと協議を行い,発展的な見直しを行ったうえで開催するものです。と本日の案内がありました。 式典は,黙祷,市長式辞,献花,来賓あいさつと続き,市民発表がありました。 市民発表は,八名郷土史会 安形茂樹氏から「身近な人の戦争体験を取材して」の話がありました。 安形氏は,時代とともに薄れていく“戦争の記憶”を残していくことに取り組んでこられました。 活動の4つの柱の一つ「失われていく記憶を記録に」で,“身近な人の戦争体験”にこだわり,“いずれ語れる人がいなくなる”ことへの危機感をもって,精力的に活動してきました。 体験の記録を冊子『わたしの戦争体験』にまとめたり,その内容,その後の記録をWebサイト「富岡ふるさと会館」で公開しています。ご覧ください。 発表メモより
○体験者の話「やっと話すことができました。死に土産にします。」 ○「戦争とは,人殺しになること」「人を殺すことで英雄になる」 ○“加害体験”がカギとなる続けて,広島平和記念資料館被爆体験伝承者 若山隆英氏から「被爆体験伝承講話」をお聞きしました。 若山氏が伝承するのは「被爆者 御堂義之氏」についてです。 講話は,小学校の頃のエピソード,御堂さんの伝承をしようとしたこと(歴史的,学徒動員,広島への原爆,原爆を作る)ことを述べられ,そして「キノコ雲の下にいた9歳の御堂氏」の話に入っていきました。 伝承者として,御堂氏の体験を“次世代へ語って”いただきました。 会場には中学生が10名ほどしかいませんでしたが,“中学生に伝える”言葉でした。 講話メモより
○住宅疎開で,引っ越しをしている中で ○8:15 兄が先にいて,屋根に登れなかった御堂氏 ○兄は顔が腫れ,皮膚が垂れている(絵には服を着せて) ○匂い。臭い。ニオイ。今でも「臭いがするのでは…」 ○母の背中からウジムシが湧いてきた。 ○生きたまま焼け死んだ赤ちゃん ○10才で生き残って,一人で生きた御堂氏 ○「不良少年」と呼ばれて ○死のうと思ったとき,母が出てきて「戦争が愚かなこと伝えなさい」と ○原爆は落とされた時の苦しみだけでなく,その後も長い時間人々を苦しめています。 ○戦争は“飾った言葉”で始められる会場は“満員”で,大盛会の第1回でした。 でも,気になっていた「“若い世代に語り継ぎ”を形にする」ことができたのか,足らなさを感じます。 お招きした“伝承者”は,さらっと言われましたが,研修を受けた方です。話をする相手は“次世代”を想定しているように思います。 今日の市民発表,講話を,もっと多くの“次世代”に直接伝えられる式典であったなら…。 会場には,教育関係者もいました。それぞれ子供達に語っていただけると思いますが,伝聞では,残念ながら“今日の言葉の力”はないと思います。 担当は,「次回は…」と言うと思いますが,それでよいのでしょうか。 「時間とともに人がいなくなる…」と講師の言葉通り,“今すること”を後に送らないことが肝心だと思います。 追悼と先人への感謝,今への感謝をした一日でした。 ありがとうございました。 【関連】 ◇新城市平和都市宣言(新城市) ◇式典での「平和都市宣言」唱和(YouTube) ◇富岡ふるさと会館 ◇「戦争時代の体験記録」(富岡ふるさと会館) ◇「続 戦争体験記録」(富岡ふるさと会館) ◇「新城高女の悲劇」(富岡ふるさと会館) ◇広島平和記念資料館 ◇Webサイト「被爆者の声」 ※このサイトで紹介する音声・動画のなかに「被爆者 御堂義之さん」がリンクされています。