「情報を抜く」??
「大型の台風に備え…。」との天気予報やニュースが伝えていますが,今日は“晴天の暑い日”でした。
作業をしていると,汗が噴き出してきました。
当地へは,台風の直接の影響はないようですが,寒気と暖かい湿った空気がぶつかり大雨が降りやすい不安定な天候のようです。
日本中のどこでも,災害の起きないこと願っています。
朝,市役所の総合支所へ“防災について”問合せと相談に行きました。
先日,地区の役員会で相談したことについて,「市役所の対応」「今後の予定」を確認しました。
「なるほど…」「よろしく…」という事柄と,「どうするの?」「困った」という事柄と…。
担当者と確認し,次は本庁へ相談をすることとしました。
よろしくお願いします。
「もしも…」に備えるには,“即時”の対応が重要だと思うのですが,行政の仕事は…。
“ひと昔”前の話題ですが,内田樹氏のブログに「情報を抜く」という話題がありました。
クリエイティヴ・ライティングの今週の宿題は「情報を抜く」。 ものを書く上での「情報を抜く」ということの重要性を指摘した人にかの橋本治先生がいる。 橋本先生はこう述べておられる。 自分が生きている限り、自分の身近にはまともな生活圏があるんだから、そのことは考えなくてよくて、そこから外れたときにどう生きるかという考えをしなくちゃいけないから、外れたところにいる人のことを考えるしかないということなんじゃないのかなあ……。俺、高校のときにいっぺん外れちゃったから。 それで、自分の居場所ってどこなんだと。 知らない人のいるところで生きていくしかないから、じゃあその知らない人をとりあえず考えてということだと思うし。 あと、自分と違う人のほうがわかりやすいんですよね。 『桃尻娘』を書くときに、こっちが二十七、八じゃないですか。主人公は十五だったでしょう。 何が違うかというと、男と女が違うと考える前に、彼女は俺より十二年若いんだ。とすると、俺が知っている十二年分、彼女が知らないんだな。そういう引き算をしちゃったんです。 たとえば、自分が高校生だったときに好きだった歌を彼女は知らないはずだというふうにすると、じゃ代わりに彼女が好きなのはなんだろうと。 そういうふうに抜いて代入していくと、パーソナリティーが出来てくるんです。 これは今秋発売の『橋本治と内田樹』の一節における橋本先生のご発言である。 すごいことをさらりとおっしゃいますね。内田氏が言うようには,橋本氏の言葉が伝わってこないのですが,みなさんは,橋本氏の「“情報を抜く”ことの重要性の指摘」がお分かりですか。 これを“哲学”とは言わないでしょうが,考えを巡らすと「ピカッ」と一筋の光を感じるような気もします。 この項の最後を,次のように述べています。
実際に「情報を抜く」のはきわめて困難である。 けれども、理解も共感も絶した他者を理解したいと望むなら、自分の予断を形成している「情報を抜く」ことが必要であるとわきまえておくだけとりあえずは十分だろう。 というわけで、宿題は「2003年6月26日の日記」である。 君たちの5年前のある一日の日記を書いてきなさい。 もちろん、中学生時代の日記をほんとに出してきて書き写したりしちゃダメだよ。 そうではなくて、自分で考えるのである。 それからの5年間に自分の身に起きたことを「知らないこと」にして、それによって形成されてしまった価値判断の基準や、好悪や美醜の傾向を「リセット」するのである。 どうしてそんなことをするのかというと、君たちの中には「今の君たちが忘れてしまった自分/今の君たちのことを知らない自分」がいることを思い出して欲しいからだ。 そして、彼女たちに言葉を与えてやってほしい。 どんな日記が出てくるのか楽しみである。「夏休みの宿題」は,終わりましたか。 【今日の小咄】 「生化学ハンドブック」という専門書がある。 全数千ページのとても片手では持てないほどの重い本である。