集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

2-1.2 信玄の一夜(1) (昭和に生きる)

花0224。 今日、久しぶりに○○にでかけました。  平日ですが、前回より、いろいろな場所で人が多く、賑わっていました。“制限が緩んだ”ことで、人々の行動が大きく変わっていることが、田舎で引き籠っている者に驚きでした。  故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。  渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“”そして“”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。  本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。  この項は、現代の教育へ続く「戦後教育史」を見ることができます。 ********     戦後教育史の片隅に生きる     青年教師時代  東郷東小学校の学校新聞二十六号(昭和二十九年三月)の一隅に、つぎのような文が載っている。   信玄の一夜  日本の社会科の方向づけのため文部省にあって指導要領の編纂に努力され、社会科の育成のために、現在名古屋大学に教鞭をとられる日本の教育学者 上田薫先生が本校の研究会のために、わざわざ前日おいでになられた。先生を信玄の宿にうかがい、先生にいろいろとお話をうかがう機会に恵まれたわたしは、そこで先生の苦悩の一端を窺い知ることができた。  社会科の解体、地歴の独立の声が巷間に広まり、社会科に対する無国籍性、無目的性、無責任性の批判はきびしい。しかし先生は「道徳、学力が低下しているといわれるが、わかっていることはそれでしかないのだ。本当の社会科とはなにか、根本から考えることの方が大切である」といわれ、さらに「現実の社会を理解し、社会の進展に貢献しうる実践的人間を育成するのがねらいであって、さらに社会科を前進させなくてはならない」と力説されるのである。  新教育の死命を制するともいうべき社会科改善の問題をめぐって、その創始に尽力なされた先生の胸中はいかほどであろうか。先生の考えていられることと現実のずれとの落差に先生の苦悩があるようである。今日における社会科の問題を説かれる先生の真摯な姿に接し、たしかに日本の教育を支える教育学者であると感じたのはわたしのみではなかろう。  初春の夜もふけた十一時すぎ、信玄の宿舎を出た私は、哲学専攻といわれる先生が、理路整然と話される社会科の本質論を想いかえしながら、あくまでも経験主義の教育に徹していかなくてはならないという考えに誤りはなく、どこまでも推進していかなくてはならないことを決意したのである。そのとき、ふと先生の著書にあった“社会科の運命は民主主義の運命である”ということばを思い出した。  上田薫先生をお招きして教育研究発表会をもつことにした。その前日に宿舎でいろいろお話をうかがい、自分の考えている方向がまちがいないことと、さらにそれを前進させることが必要だという励ましのことばをいただいたときの感銘の一端なのである。 カット0224。 上田先生は「考えるこども」七〇号(社会科の初志をつらぬく会機関誌、四十五年三月号)にそのあたりのところを、  「昭和二十六年の九月にわたしは名古屋大学に赴任した。引越した翌日に飯田線の沿線の浦川というところへいき、ひどい地震にあって名古屋はどうかななど思った記憶がある。その翌年か、それともまた次の年か、わたしはまた飯田線に乗る機会ができた。新城という町の小学校に招かれたからである。多分手紙をくれたのだろうと思うが、東郷東という農村部の学校の若い教師が、わたしにぜひ来てほしいと頼んだのである。  三上仙造氏の学校へいきはじめたのは文部省時代だから少し早いが、東郷東小学校へも毎年つづけていった。その若い教師がずっとそこにいつづけるあいだ、休みなくいった。……」 と書いてみえる。  先生から教えをうけるようになるきっかけとなった最初の“出会い”、それは昭和二十九年二月二十八日であった。わたしの教員生活の歩みにとってもっとも重要な、そしてもっとも大きな曲がり角ともなったのである。その“偉大なる師”とのめぐりあいは実に教員生活を始めてから七年目が終わろうとするときであった。 (つづく)
※ 社会科の初志とは、一般的には経験主義による問題解決学習の社会科の考え方といってよい。初志の本質は、まずなによりも人間尊重ということにある。人間をずたずたにしたものへの激しい抵抗以外に初志の精神はない。そしてそのことが教育の理念として、「学問観の変革」をあげている。この考え方に立って、昭和三十三年八月“社会科の初志をつらぬ会”が結成され、機関誌『考える子ども』が発刊される。
********  注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で  注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。