1-8 少年の日の“ひがみ”(4) (昭和に生きる)
寒い朝、そして天気のよい一日でした。
春に向かっているとはいえ、日差し、気温の変化に体調が乱れそうです。
感染対策とともに気候の変化に合わせた過ごし方をしましょう。
資料のなかに、故・冨田勲氏のサインの写真を見つけました。
冨田氏が、2006年に鳳来寺山で行ったコンサートを行いました。ここで演奏された『仏法僧に捧げるシンフォニー』に、鳳来寺小学校と庭野小学校の子供達が参加しました。
その練習で小学校を訪れたときのもので、その時の写真とともに写していました。
この時の歌は、翌年にNHK「みんなのうた」で『鳳来寺山のブッポウソウ』として放送されました。
あらためて、子供達の歌声を聴きました。
◇『鳳来寺山のブッポウソウ』(冨田勲)(YouTube)
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、「昭和62年『考える』116号」から構成されています。
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昭和に生きる
少年の日の“ひがみ”
青春時代(2)
(つづき) 二十年四月になると、同級生のところへ続々と召集令状が届けられるようになった。東海道線幸田駅頭には「花も蕾の若桜、五尺のいのちひっさげて……」の歌がこだましていた。だんだんと同級生が少なくなってくると、どうしてオレのところへはこないのかなあとあせる気持ちが自分にあることがわかりだした。ここでも、みんなに遅れないように早く兵隊にいきたい、トラ年のものはよいなという気持ちになる。しかし心の片隅ではちょっとでも遅くくればよいがという気持ちがあったことはたしかである。そこでイライラする自分をどうすることもできなくなってくる。
世界の状勢は、昭和二十年四月一日には米軍が沖繩本島に上陸をした。日本軍は捨て身の戦法で戦ったが、戦運われに利あらず、六月下旬に最高司令官牛島中将の自決によって、組織的な沖繩戦は終わった。一方、本土の空襲は六月から七月にかけて中小都市が攻撃の目標にされ、被災都市は百以上に及び、日本列島は文字通り焦土と化していった。
トラ年のものは、ほぽ八割が入隊し、ウサギ年はわずか二割というちがいがでていたのであるが、わたしはついに行くことはなく残留というかたちであった。このわずかなちがいが兵隊にいくかいかないかのちがいになり、それが一〜二年のちがいによっては外地にいくかいかないか、生死のわかれ目になるという妙な運命にもあわされたのである。
入隊したものもわずか数か月の軍隊生活を送ったのみで、昭和二十年八月十五日の終戦を迎え、命ながらえて学校へ帰ってきた。屈辱感、解放感、虚脱感、自暴自棄──国民それぞれの立場に応じたさまざまな感情が国内に渦巻いた。敗戦後の貧しい生活のなかで、わたしたちはふたたび学校生活を送ることとなるのである。
むろん、わたしは、つねに生まれ月や年齢によるちがいを気にしないし忘れてもいる。しかし、個人的な体験を主とした“昭和史”を、考えようとするとたいしたこともなさそうなこの問題が、がぜんウエイトをまして図体を大きくしてくるのはどうすることもできないのである。
たしかに戦争や敗戦が大きな“共通体験”となっているというのは正しいことだと思う。けれども一つ一つをとりあげて話し合おうとすると、話がまったくかみ合わないことがある。いったいなにが共通体験かと思うのである。わたしが個人的に自分の少年・青年時代の不幸を熱心にふりかえればふりかえるほど“共通体験”の共通項からはずれて、なにか特殊な偏見にみちた自分個人のグチをくどくどと語ることに堕してしまうにちがいない。そこに個人史による昭和史のむつかしさがあるといえようか。
“戦中派”に属するわたしが、やや個人的なグチをならべたというところである。しかし、“戦中派”の人のものの考えの根底に、青春時代の痕跡が色濃く投影されていることだけはたしかなことであろう。
(昭和六十二年「考える」一一六号)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
【関連】
◇『鳳来寺山のブッポウソウ』(冨田勲)(YouTube)
◇追悼〈冨田氏〉(2016/05/09 集団「Emication」)