気温の低い朝、そして気温の上がらない一日でした。朝は日差しがありましたが、しばらくして雲が広がり、時々雪の舞う天候になりました。
昼を過ぎると、雪の降り方が強くなり、そのまま降り続くのではないかと不安になる様子に変わりました。今夜は…。
故・
渥美利夫氏が還暦の年に著した『
昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“
昔の話”ですが、その“
根”そして“
幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
自分が新任の時、渥美氏は他校の校長先生でした。そして4年目、勤務校に異動・赴任されました。渥美氏から多くのことをお教えいただきました。
そして、渥美氏と親交の深い三枝孝弘氏、日比裕氏、石川英志氏、市川博氏など教育学者の方々から指導をいただく機会が増えました。また、初めて雑誌原稿を書くとき、その内容を指導いただくだけでなく、執筆の“
あれこれ”をお聞き出来ました。
同じ学校で勤めたのは2年間でしたが、この間の学びは、その後の教育活動、生活の礎として大きなものになりました。
第一章に、
毎日新聞に掲載(昭和57年7月)された「
東海ストーリー──仏法僧の里」が紹介されています。
そのなかに、渥美氏の“
子供の頃”をみることができます。
********
昭和に生きる
東海ストーリー 仏法僧の里
子供心に
「声の主はコノハズクに違いありません」。権威ある鳥博士から送られた説得力あふれる手紙に、門谷の村人たちも納得せざるを得なかった。だが、大人の論争をよそに、教科書に「わが村の鳥・仏法僧」が載ったことは、子供たちの心をなごませた。
国定教科書小学国語読本巻九が村に届いたのは昭和十二年の早春。巻九は五年生の前期で使う。四年生を終わろうとする門谷小の子供たちは、新しい教科書を手に、ごきげんだった。
五年生になる児童は十四人いた。その一人、渥美利夫さん(55)が「巻九」を手にした時の印象は鮮烈だ。「今の子供と違い一年に一回、少年倶楽部を買ってもらい喜んで読む程度。だから、お古じゃない新しい教科書をもらうと、すぐ家で開いたことを覚えていますよ」
──校舎の玄関わきの戸棚にはプッポウソウのはく製が、大事そうにしまわれていた。よく鳴き声を聞くので親しみは抱いたが「姿が見えないのに変だな」と幼心に思った。
四年生のときに、父が黄だんにかかり、母と一緒に隣の集落り玖老勢まで、薬をもらいに行った。その帰りの夜道で、ブッポーソーと、よく鳴いた──。門谷で、生まれ育った他の子供と同じように、渥美少年も、こうした思い出をもつ。教科書に「鳳来寺」の文字は表れない。「なんで、村の名前がきちんと出てこないんだ」と不満はあったけれど、書かれた内容は自分たちが住む村のことだ、と子供ながら、よく分かる。
「仏法僧」の項目は、二十八単元中十三番目。ちょうど、門谷に鳴き声が下りて来る季節に、勉強できる。「お国自慢じゃないが、授業でどう教えてくれるか、楽しみだった」。渥美少年の胸は、期待でふくらんだ。
(つづく)
********
注)
これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
【参考;
気象情報】