2.(12-2) 戦後の作手村 (わたしたちの村)
昨夜は,驚きました。長く続く大きな雷鳴,激しい雨…。
近くの観測点の記録が,20時台に32mmの雨量を記録していました。1kmほど離れた観測点は,同じ時刻に20mmの雨量で,局地的な降り方をしていたようです。
他の観測点では,さらに多く降っていたようで,落雷による停電もあります。
今日,朝は青空が見えましたが,徐々に曇ってきて,昼頃には雨が降りました。午後,蒸し暑くなりました。
梅雨明け,そして晴れた日が待たれます。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(十二) 戦後の作手村
2 六・三制の出発
太平洋戦争で負けた日本は,アメリカを中心とする連合国軍に占領されました。占領軍は,日本を平和で民主的な国にするために,つぎつぎに新しい政治を行わせました。そのために,学校の制度も,大きく変わりました。
1947(昭和22)年に,国民学校がなくなり,小学校6年,中学校3年の義務教育が始まりました。
作手村にあった菅守・開成・巴・高松・旭・田代の6つの国民学校は,それぞれ小学校になりました。そして,下の表のように新しく3つの中学校ができました。 中学校は運動場も校舎もなく,先生と生徒だけで始まったので,あちらこちらに分かれて授業をしました。食料増産のための作業も多く,教科書も学用品も足りなかったので,勉強するのに大変困りました。
1948(昭和23)年には,第一中学校が作手中央中学校,第二中学校が作手南中学校,第三中学校が作手北中学校という名前になりました。
戦争が終わったばかりで,大変苦しい時でしたが,早く,中学生たちがしっかりした教育を受けられるようにしなければならないと考えた村の人たちは,力を合わせて,中学校の場所を決め校舎をつくりました。
中央中学校は1948(昭和23)年から1952(昭和27)年までの間に,南中学校と北中学校は1950(昭和25)年までに,校舎が完成しました。
また,1947(昭和22)年3月14日,巴国民学校が火事になって,校舎がすっかり焼けてしまいました。そのため,六・三制になってからの巴小学校は,市場・相寺・作手農休学校と三か所に分かれて勉強をLていましたが,1948((昭和23)年には,現在の場所に校舎が建てられうつることができました。
このように,戦争後の作手村では,学校を建てることが,大きな問題でした。
六・三制では,それまであった中等学校や青年学校をやめて,中学校を卒業した生徒が勉強する学校として,高等学校がおかれることになりました。
作手村では,農林学校を新制の高等学校にしたいと考え,村の主だった人たちが力をつくしたので,1949(昭和24)年に,新城高等学校作手分校ができました。
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注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。