作手の三等郵便局(4) (つくで百話 最終篇)
青空が綺麗な晴れた日でしたが,気温が低く,暴風の吹く凍える一日でした。
最近プリンタの調子が悪く,異音がしたり,印刷が汚れたりすることがあります。機能を使ってクリーニングや拭き取りなどしてみますが,あまり変わりません。
「交換時期が来たのかな…」とも思いますが,もう少し使えるように,自分でできそうな“掃除”をしてみました。
解消・解決とはいきませんが,汚れは減り,音も小さくなったような気がします。
しばらく使っていけそうです。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
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作手の三等郵便局
(つづき)
郵便屋さん
私たちは,郵便集配人を「郵便屋さん」とか「郵便さ」といって馴染み親しんできた。そこには隣人に対するような親愛感があった。
昔の郵便屋さの装束は黒一色であった。帽子は黒布で被われた饅頭笠で,正面に赤色の〒マークがついていた。黒のシャツと黒股引,黒鞄にも赤のマークがあった。黒の足袋に草鞋穿きという服装であった。
周囲から隔絶された山村の住民にとっては,毎日やってくる郵便屋さんは懐しい来訪者の一人であった。手紙や新聞雑誌を運んでくる郵便屋さは文字通り福音のメッセンヂャーとも思われた。
一日平均四〇キロくらいの山坂を歩き廻っていた郵便屋さに対しては,心底から「ありがとうござんス」の感謝の言葉がかけられるのも当然であったろう。
数多い郵便屋さんの典型的代表として,大和田局の竹下市太郎をあげることには誰しも異存ないことと思う。
竹下市太郎は,明治九年五月五日の出生で,大和田局の集配人になったのは彼が二七歳の明治三六年一一月一八日であった。それから四八年間,昭和二四年九月三〇日退職するまで,黙々と真面目一点で勤めた「郵便さ」の一生であった。
毎朝,未明に起きて六時には鞄をかけて出発する。腰には弁当箱と予備の草鞋がブラさげてあった。あせらず,急がず,機械のようにコツコツ歩いていた彼の姿は,彼の死後四半世紀を経た今日でも髣髴として瞼に浮んでくる。
紋日や祝事のある家に彼がやってくると,
「一つおあがりや」と言って,牡丹餅や酒を差し出されると,うれしそうに口にする彼であった。
氏神様の祭礼の日などに彼がやってくると,みんなが手をとって引っぱり込むのが常であった。酒好きの彼は遠慮なく飲んだが,酔いつぶれるようなことは決して無かった。いつも郵便鞄をしっかり抱きかかえていた。
「○○さのとこへは俺が届けてあげるからおよこし」等と言われても
「インにゃ俺の仕事だでのう」と断わるほど,彼は責任感を持っていた。
「すまんがこれを届けておくれんかイ」とか「○○公に明日くるようにいってくれんかい」などと,手紙や言付けを頼まれると「よしきた」と快くひきうけて,確実に実行する彼でもあった。
彼があちこち廻っているうちには,家庭内の紛争や男女のスキャンダルもいろいろ見聞したであろうが,そんなことは一切口にしない彼であった。それだけに村の人々の信頼も厚かったわけである。彼が死んだ時,湯棺をした近親者は,彼の体に鞄をかけたあとが凹んでタコがあたっているのをみて驚いたということである。彼はあの世までも郵便マークを運んでいった。
竹下市太郎一家は,終始,島家の隠居家をあてがわれて生活していた。それだけに島家とは密接な交渉をもっており,お互いに助け,助けられる親しい間柄であった。そこには労資のいさかいなど微塵も存在しなかった。
(峯田通悛)
《写真》 竹下市太郎
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