作手の三等郵便局(3) (つくで百話 最終篇)
気温の低い一日でした。
予報が「日本海側で雪が強く降る…」と伝えていますが,当地にも影響がありそうな“寒さ”でした。
さて,明日は…。
新型コロナウィルスの感染拡大が,なかなか治まっていきません。
マスク・手洗い・距離の確保・掃除・消毒・換気…
自分にできる感染予防をしっかり行いましょう。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
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作手の三等郵便局
(つづき)
局長の人脈
高里郵便局の開局当初は四人の局長が相次いで更迭したが,第五代局長となった斉藤太六は明治三四年就任以来三八年間勤続した。太六の没後,長男豊がその後を継ぎ一六年間その職にあった。豊の没後は矢頭巌が四ヶ月許り局長事務取扱を拝命したが,豊の相続人武彦が昭和二八年局長に就任して今日に至っている。
大和田郵便局では島幸市が明治一七年一月に初代局長に就任したが,同年八月には嗣子亀平にその職を譲り自後三五年間,亀平は没年まで局長を勤めた。亀平の後,竹下茂八が二ヶ月ばかり局長事務取扱いをしたものの,亀平の嗣子彦九郎が局長となり,昭和三六年一月,その急死するまで四四年間在職した。彦九郎の没後,甥の太田勉が局長を勤めているが,いつかは彦九郎の長男米平が局長に任命される日が到来するものと思われる。
守義郵便局は局長が五人ばかり交代しているが,何れも原田一族で継承している。かようにみてくると,作手の三等郵便局は世襲制のような観がないでもない。世襲制がよいかどうかは別問題として,そこには逓信事務官としての堅実性,凡帳面さがうかがわれる。これが地方民の信頼をかち得ている所以でもあったであろう。
前島密は三等郵便局長の選任にあたって,地方の名望家・資産家を説得したことを前に述ぺたが,作手の三等郵便局は正にその典型的なものであった。
守義郵便局長原田紋右衛門が二〇代で戸長に選任せられ,郡会議員・県会議員に選拳され,国学者・歌人として全国的な名声を博していたことは,つくで百話ですでにとりあげている。
高里郵便局長だった斉藤太六も素封家の出であり,鋭い頭脳の持主で,優れた政治的手腕と親分的な抱擁力が高く評価されていた。作手村会議員に連続三回当選していることも,その信望の厚かったことを物語っている。
大和田郵便局長島亀平は美髯をたくわえ,温容に笑みをたたえた端正の物腰で万人に接するところ,正に明治時代の旦那衆の象徴的人物であった。亀平の三六年の勤続・嗣子彦九郎の四五年の局長歴は県下でも稀にみる局長歴であり,そこに,よき時代の三等郵便局の庶民と密着した姿がうかがわれる。
(つづく)
《写真 上》 島彦九郎
《写真 下》 島亀平
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