集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

『学校ハラスメント』(内田良・著)

実0724。 朝から晴れのよい天気の一日でした。  日中は気温も上がり“”を感じる天候でしたが,これまでの雨で湿度の高い蒸し暑い日でした。  九州,四国,近畿,北陸と一斉に梅雨明けしたようです。当地の梅雨明けも間もなく?  行き過ぎた組み立て体操の危険,長時間の勤務…,学校や教育に問題提起を続ける内田氏の『学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動ーなぜ教育は「行き過ぎる」か朝日新書を読みました。  学校ハラスメントについて,
 教師はときに,ハラスメントの被害者にもなる。従来型の教師バッシングを先行させるばかりではなく,教師の声に耳を傾けたり,また教師が置かれた状況を俯瞰したりすることが大切だ。「加害者は誰か?」───本書にはそうした意味を込めている。  私が本書をとおして伝えたいのは,ハラスメントそのものに向き合うことの重要性である。最初から加害者あるいは被害者を決めてかかるのではなく,まずはハラスメントを直視する。(略)
としています。  そして,“学校ハラスメント”の特徴を,
 第一が,字義どおりに,学校管理化を前提としている点である。(略)  第二が,教師から子どもに対するハラスメント以外にも,子どもや保護者から教師に対する暴言,教師間の嫌がらせ,さらには他の学校関係者から子どもに対する恫喝などを包括している点である。(略)  そして第三の特徴は,つねに「教育」という要素が絡んでくる点である。
の3つを挙げています。  このような押さえ,視点から,「学校ハラスメント」を述べています。  「教育的意義が…。」「当たり前…。」「みんなで…。」  そこに沈み込む“教育”と“思考”…,それに正対させる話題が続きます。  教育関係者,保護者,そして大人に読んでいただき,論議と行動をしていきたいと思います。  それによって,子供達の“未来(あす)”を明るく確かなものにする“現在(いま)”が創られ,高まっていくのだと思います。  メモより
○ 私たち大人は,子どもに身体を壊しかねないような環境下でスポーツをさせて,しかもそれを観ながら,一喜一憂している。(略) これはもはや,不特定多数の大人たちによる集団ハラスメントのようにも見える。 ○ 教育界は,暴力に甘い。その理由は,暴力は「効果抜群」だからである。 ○ 苦しみやハラスメント被害は,「大好き」というポジティブな感覚によって蓋をされてはならないということだ。一定数の犠牲の上にはじめて成り立つような活動であるならば,少なくとも学校教育としては不適当である。 ○ 労働環境の場合には,「労働安全衛生規則」によって,高所作業時の安全対策が細かく定められている。たとえば2m以上の場所で作業するときには(略) これが子どもの高所作業になったとたんに,それは運動会の華として,拍手喝采を受けることになる。大人は守られ,子どもは危険にさらされる。 ○ 加害者と被害者を想定することなく,ハラスメントそのものを直視していく。崇高で立派な教師像を解体し,学校の風通しをよくする。教師の特権が奪われることで,教師の安全と安心が確立していく。 ○ スマートフォンの使用に怯える教師と,スマートフォンを積極的に教育活動に取り入れる教師。時代はどこに向おうとしているのか。目がくらむような思いになる。 ○ 教師が外界からすぐにバッシングされるのは,教師は崇高な存在であり,だから子どもをまっとうに教育するはずだということが前提とされているからである。 ○ 学校管理下では,「教育」という枠組みのなかで,ハラスメントが「消える化」していく。
   目次 はじめに 加害者/被害者を解体する 第1章 殴っても「教育」――暴力を容認する指導の論理 第2章 巨大組み体操の教育的意義――「痛い」を禁句とする学校の暴走 第3章 スクール・セクハラの過去と現在――「教育」との連続性がありえた時代 第4章 部活動顧問の嘆き――「やって当たり前」の悲劇 第5章 教師の暴力被害――殴られるのは指導力不足のせい? 第6章 「問題行動」を読解するためのリテラシー――いじめの件数は少ないほうがよい? おわりに 教育を語るために教育から抜け出る
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