集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「山論」(つくで百話)

 予報が「夕方から雨…」でしたが,いつ雨が降り出しても不思議ではない曇り空の一日でした。  食卓に“新じゃが”がありました。じゃがいもの育ちを確かめるように採ったものです。  まだ粒が揃っていませんが,大地の力を感じ,自然の恵みに感謝して,美味しくいただきました。  感謝  午前中,城山の会の会のみなさんで,城山公園の清掃を行いました。多くの会員に参加いただき,手際よく作業を行っていただき,公園が綺麗になりました。  ありがとございました
城山清掃0602。
 『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。 ********     山論  昔は,田畑の肥料は干草や厩肥でした。この厩肥も馬を飼った刈草が原料となったのですから,年間に刈る草の量は莫大なものでした。又燃料は全部,モヤや薪でしたから,これも夥しいものでした。その頃の農家は,大抵萱葺き屋根でしたから,屋根ふきに使う萱を確保するためには,広大な萱場も必要でした。このために雁峯山一帯は,近隣の百姓の草刈山として重要なものでした。山下三十一か村の草刈山としては,雁峯山の南側だけでは不充分でしたので,峠を越えて作手地内ヘも入りこんできました。このため杉平,田代,荒原,川手,弓木,小林地内まで侵入してきましたので,関係住民との間に絶えず,いざこざが起りました。これを山論といいました。双方の住民の属している領主が同じ殿様でありますと,地方で話合いがつきましたが,殿様が違うと,江戸の評定所のさばきをうけることになります。この場合には,訴訟方は御奉行所に訴状をもって願いでます。御奉行所では,これに裏書きをして相手方に渡します。そして,御差日に評定所に出頭して対決するのですが,その場で判決ができないときには,幕府の役人が現地に出張して実地検証をすることになりました。江戸までは片道七日の行程でしたが川止めなどがあるので十日,往復二十日と江戸の滞在を五日くらいみなければならないので,その旅費は莫大なものとなりました。村の総代が江戸へ出張する費用としては,関係者が米を醵出してこれにあてましたが,この供出米がかなりの量になりましたから訴訟だおれの悲劇もしばしばおこりました。  燃料として立木を伐るときに,鎌で伐ることのできるものと定めておいたことから鎌の変形した木鎌(鉈)を使用することを認めました。すると,この木鎌をだんだん大きくするので,一挺二百匁から三百二十匁以下と評定所できめられました。それでも,内密に,鋸や斧を持ち出して目通り二尺以上の大木,中には囲り五尺八寸もの大杉を伐り倒したものもあって山論のもとになったこともありました。  山下の百姓が協定違反をしたというので,田代,荒原の百姓が,鉄砲,押太鼓などをもって大挙襲撃して,散々に打ちこらし,所持していた道具や馬の鞍などをとりあげて追い帰したこともありました。退却した山下の百姓が真国のお寺で相談していると,追い討ちをかけた作手方が,山上から大きな山石を転ろがして,苦しめたこともありました。  また或る時は,山下の百姓衆が,田代の村中までも入りこんで,麦畑の周囲にあった柵の立木を伐りとり,馬五十頭を麦畑に放って,麦を食い荒らさせたことから,双方が険悪な対立状態に陥ったこともありました。  この山論は,寛永十五年以来三百年近くもつづきましたが,明治四十四年二月,関係部落に夫々所有権移転をして終止符をうちました。 ********  木鎌の大きさとして「一挺二百匁から三百二十匁」との記述がありますが,どのような“大きさ”か分かりますか。  評定所で決めた経緯や意味があるのでしょうが,この話を読むと,よりもの方が合いそうな気がしましたが,いかがでしょう。   注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で