集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「狩人釣人(大和田村)」(つくで百話)

花0527。 「体が慣れていなくて…」という言葉も使いにくいほどに,好天の暑い日が続いています。  まだ湿度が高くないので,この暑さも過ごせていますが,徐々にムシムシした暑さとなってくることでしょう。それに耐えられる体力をもっていたいと思います。  『つくで百話』(1972・昭和47年 発行)から「村の起原と人物」から紹介です。 ********     狩人釣人(大和田村)  昔は,この地方にも猪,鹿,熊,狼などの猛獣もたくさん棲んでおりましたし,山道を歩いていても,狐,狸,兎から山鳥,雉子などをみかけることも珍らしくはありませんでした。秋から,冬にかけては,空の色が変わるくらい多くの渡り鳥が飛んでくることもありました。大川には,アマゴ(あめのうお),白ハエ,アカブトなどの大きいのが群れて游いでいるのが,至る所でみられました。その頃は毎年,水田で鯉を飼いましたので,田から逃げだした鯉が淵にかたまっていることもありました。三〇センチ以上の真鯉,緋鯉が大川でみかけられるなど,今の人たちには想像もできないことでございましょう。子供たちが,夏の夕方ふて針をしておくと,あくる朝は,四百グラムからの鰻がかかっていることも珍しくはなかった時代でした。  こういう恵まれた環境でありましたから,狩りや釣りの名人,天狗も多勢おりました。それらの人の中から,記憶に残っている方を想い出してみることにいたします。  茂八さんは,山でも川でも,すぐれた腕をもっておりましたが,若い時から声が大きいのが特色でした。十四五才のときに,狩の名人といわれていた国太さんが 「お前は声が大きいから猪ぼい(追い)の勢子をやってくれないか」と誘われたのが,病みつきで,一生鉄砲かつぎをして,その道のボスの地位におさまりました。どちらかというと,茂八さんは,直接猪を撃ちとめることよりも,猪退治作戦の参謀長という格好で活躍しました。  ある所に猪がいることをつきとめると,その日に集まった狩人の数と能力をみて,誰はどこへ,彼はどこへとそれぞれのマチ(猪の通る関所)を割りふりすることに特殊の感をもっていました。人数が足りないときには,自分で二つも三つものマチをうけもちました。  先づ第一の地点へ行って大きな声で呼ばりますと,寝屋にいた猪は,その方向に人がいるのを知って警戒します。それから第二の地点へ行って石を谷底の方へ転ろがします。猪は,ここにも人がいるのを知って,そちらの道も避けます。そして最後に自分のマチで張りこむのです。いよいよ一同が部署につくと呼子を嗚らして合図をします。猟犬は一斉に行動を起こして猪に向かって突進するのです。猪には,通路がきまっていますから,その通路によって逃げ出すのをマチに張りこんでいた狩人が仕止めるというのが猪ぽいの方式なのでした。こういう策戦計画を樹てることが茂八さん得意の分野でありました。  源作さんは,どちらかというと鈍重という性格でしたが,大胆不敵といいましょうか猪を手近かに引き寄せてから,覘いを定めて一発で仕とめる名人でした。その覘いは,猪の頭部で,百発百中源作さんが殺した猪は,皆頭をやられていました。  昔の鉄砲は,今のように精巧な,連発式のものではなかったのですが,国太さんは,早射ちの名人でした。先頭を走ってきた猪を仕とめた後,つづいて走ってきた猪を覘って撃ちとめるという離れ業をやってのけました。銃身の先の方から一つ弾をつめて,発射するには素晴しい機敏さと落ちつきが要求されていましたが,それをやってのけた国太さんは確に名人といわれるべき人物であったと思われます。  ある時,村の衆が集まって雑談をしていたときに,十四,五メートル離れた大木と大木の間に,大きな女郎蜘蛛が巣をはっておりました。「あのくもを一発で射ちとるものに一升(酒)やる。」という話がでました。すると半平さんは「よし俺が引きうけた。」といって,愛銃を持ってきて,見事一発で,この蜘蛛をうちとったほどの名手でした。ちょっと暇があると,山へ行って山鳥や兎を射って持ちかへりました。ひよどり,かしどりなど,極く簡単に射ち落としましたので,私は子供のころ,半平さんの獲物に始終ありついたものでした。川の淵に,大きなアマゴが泳いでいると,これも一つ弾で仕止めてくれました。水中に游いでいる魚を射つということは,抜群の技倆の持主であった証拠だと思われます。  大和田村のすぐ川上の川手村には,教氏さんという狩りでも釣りでも無敵に強い名人がおりました。この人の幼名を千代之助といいました。この人は,犬のような特殊の嗅覚をもっていて,あたかも猟犬のように獲物のにおいと足跡をたよりに追跡することができましたので,犬千代の通称でとおっておりました。  教氏さんは少年時代の十四,五才から八十才を越えるまで,鉄砲をかつぎ,釣竿を肩にして,山や川を,その職場としていた,この道の達人でありました。彼が喜寿を迎えるころには, 「あと四十六頭射てば,この鉄砲で三千頭の猪を仕止めたことになる。」などと吹聴しておりました。彼が猪ぽいの名人であることは,南設楽郡内はもとより隣郡までも喧伝されておりましたが,これには,ちょっと水増しがあるのではないかと噂されておりました。彼は一発の弾九で猪三頭を仕止めたと得意気に話しておりましたが,いくら子猪のウリンボウでも一発で三頭を倒すということは至難の業と思われますが,彼なら,それもできたかも知れんと世間の人が考えるまでに,彼の名声は素晴しいものがありました。  ある時に,大猪のトヤ(寝場所)をみつけた時に,仲間の狩人たちを制して「今日は俺一人で仕止めるから,みんなは見物していてくれ。」といって,その日の策戦にうつりました。彼は義太夫をうなりながら,輪を描いて,猪の寝ている山を遠巻きにグルグル歩るき回わりました。そして次第に,その輪を縮めて行きましたが,猪は,義太夫の声が,あちこちから聞えてくるので,どの方向へ逃げたらよいのか判断ができなくなりました。次第次第に輪を圧縮して行った彼は,最後には十メートルくらいの近距離まで迫り,ものの見事に,ただ一発で大猪を仕止めたそうです。この時は,多勢の仲間が,彼の非凡の技倆を参観していたので,間違なしと証明しておりました。  ある時,近所の家に婚礼があって,四,五十人のお客さんの料理に六,七寸の鯇(あめのうお)をつけたいからとたのまれますと,きちっと揃った鯇をととのえました。小さい魚や,大きすぎる魚は,当分川で飼っておくのだといって,釣針りにかかっても,川の中へ逃がしてしまったといわれていたほどに,彼の釣は抜群でした。  半平さんでも,茂八さんでも川釣りも上手なものでした。鯇や白ハエなど,一度に食べきれないほどたくさん釣ってきては竹串にさして乾燥して保存してありました。藁束を作って,乾かした魚の串を数十本もさしたのが囲炉裡のある座敷の天井からつるしてあるのを,よくみかけたものでした。  昔は,この辺の川には鮎はおりませんでした。鮎の稚魚を放流して,友釣りをするようになったのは昭和の初頭以後のことでございます。放流した鮎が成長しても,これを釣る技術を知っていたのは,大和田の竹五郎さんだけでした。竹五郎さんは一宮村東上から大和田へ養子に来た人だったから,若い時に,東上辺の豊川で鮎の友釣りをやっていたベテランでしたので竹五郎さんを講師として,友釣りの指導をうけたのでした。この点についての竹五郎さんの功績は特筆されるべきものでありましょう。 ********  最初に「猪,鹿,熊,狼などの猛獣もたくさん棲んで…。狐,狸,兎から山鳥,雉子などを…。」とありますが,現在でも,猪,鹿,狐,狸,山鳥,雉子などを見かけることができます。  小さなとき,綺麗なときにみれば「カワイイ」のでしょうが,その数や生息域が変化し,猪,鹿などの獣害にはとても困っています。  “自然”を,どのように守り育てていくのか,知恵と行動が必要ですね。 注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話」〉で