川尻城は応永年間(1394〜1428)に奥平貞俊によって築城された中世の平山城である。標高570m,比高差40mの独立丘で山上の本丸は東西75m,南北32mの楕円形をしており,当時は周囲に土塁をめぐらしていたと考えられる。 後に貞俊は川尻城が手狭となり,より広い清岳に亀山城を築き移った。 現在は忠魂碑が建ち,戦没者の英霊を祀る聖地となっている。 作手村教育委員会 作手村観光協会と表示されている。 城址を下る道の山側には,多くの野仏たちが帰りを見送ってくれる。 なお,この川尻城址一帯は『創造の森』計画がある。平成八年度から三か年かけて,森林整備事業の一環とし「ツツジの丘」をメインにし,「昆虫の森」「自然体験ソーン」など遊園地として生まれ変わり,都市と農山村の交流の場となる予定である。 次は,頂上から見た八幡神社に行ってみよう。 《写真上》 川尻城址本丸付近 《図下》 川尻城址(城山)(歴史の小道) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「史跡めぐり」〉で 【参考】 ◇日本国憲法(e-Gov法令検索) ◇子どもとおとなの日本国憲法(pdf 武蔵野市) ◇『井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法』(講談社/2006年)
憲法記念日。川尻城址 (作手の名勝と史跡めぐり)
青空の綺麗な一日でした。
今日は,国民の祝日の一つ「憲法記念日(Constitution Memorial Day)」です。1948年に「日本国憲法の施行を記念し,国の成長を期する日」として定められました。
日本国憲法は1946年11月3日に公布され75年,翌1947年5月3日の施行から74年を迎えています。
憲法は“国のかたち”を定めるもので,国内の法律や規則など決まりごと,あらゆる公権力はすべて日本国憲法に従っています。
新型コロナ禍の今,あらてめて全文を読んでみませんか。新しい気づきがありそうです。
『作手の名勝と史跡めぐり』(発行1997年?)からです。
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川尻城址
文殊山をゆっくりとおりて,作手村歴史民俗資料館まで来て国道三〇一号を北へ進む。高里駐在所の少し手前に橋がある。その橋を渡って右折をする。川に沿って200m程進むと川尻城址の下に着く。ここには駐車場がない。城の下に置くしかないが,広いところを見つけて置くようにしよう。軽自動車なら山の上まで行けるが,農繁期になると,大型の農作業車が通ることがあるので注意が必要である。
頂上の広場には『忠魂碑』が建てられている。日清戦争(1894〜1895)・日露戦争(1904〜1905)・太平洋戦争(1941〜1945)で,本村出身の戦没者の霊を慰めるためのものである。脇には戦死者の個々のお名前が刻まれた石塔が並んでいる。昭和27年に建立され,189基ある。古城址に眠る英霊に拝礼をする。
山頂からは桜の木立から,作手村の中心地が一望できる。高里地区・鴨ヶ谷地区の一部・清岳付近が望まれる。耕地整理された田んぼに,金波銀波が押し寄せるころには,作手米処の証となる。また,作手の中心的な建物もよく見える。作手村役場・作手村歴史民俗資料館・県立作手高等学校・作手中学校などである。
作手高等学校の農業実習の施設が一目で見渡せる。温室の広さや耕地の規模の大きさには感心をする。田んぼの真ん中にこんもりとした森が見える。ここが後述の長者平(チョウジャヒラ)の八幡神社である。後ここにもちょっと寄ってみよう。
さて,川尻城址であるが,築城と廃城の時期については定かでないが,応永年間ではないかとされている。旧作手村誌には応永31年3月とされているが,諸条件からこの説はまともにはとれない。
城址の案内板には次のように書かれている。