集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

「先人の言葉」から

追憶0813。 天気のよい一日でした。  8月13日,迎え火を焚き,先祖の精霊を迎え,お盂蘭盆)となりました。  朝,お施餓鬼の用意をしに寺院に行きました。年に一度,この時に関係者(檀家?)が集まり供養をします。普段は気にしていない(忘れている?)ことに思いを馳せる頃です。  新旧の地域行事が行われる時期,親子で楽しんだり,手伝ったりできるとよいと思います。  新学習指導要領の“実践”を考え,準備が進められています。  また,長時間の勤務,部活動の指導など,教員の“働き方”の改善が課題になっています。  そうしたことを考えながら,新しい資料,古い記録を読んでいて,気になった“先人の言葉”がありました。  有田和正氏の言葉です。
 クラスを,できのいい人,中ぐらいの人,思わしくない人の三つのグループに分け,それぞれのグループで一人ずつ典型的な人を想定します。すぐれた教師はこういうモデル抽出を活用しています。  上中下に分布したうちの,上ランクの子しか授業内容が理解できていないようであれば,もう少し掘り下げて,中ランクの子まで届くようにし,下のランクの子どもへの手当ては授業の後半に集中させようといった策をとるのです。  今日の授業のねらいを達成するためには,Aくんのやる気を刺激してみようとか,B子ちゃんにわからせたらこの授業は成功だなどと,特定の一人を選んで,その子の意欲を引き出し,理解を深めるよう授業を行うのです。  教材を発掘するときにも,ある特定の子どもを思い浮かべて「あの子を熱中させるのに,このネタは適切だろうか」などと考える。  また,授業中にモデルの子に質問を集めて 「そんなことまで知っているのか。キミはすごいなあ」 「でも,あとでもう一回質問するぞ。もうちょっとむずかしいことを聞くからな」 などと,その子を中心にして進めていく。そうすることで,理解をほかの子供に広げていくのです。  こうしたやり方は,授業を一人の子どもだけに偏らせはしないかと思う人がいるかもしれません。しかし,代表的な「個人」を通じて全体は見えてくるものです。 (中略) それは失敗するリスクも大きいのですが,うまくいったときの全体への波及効果は最大となり,教師の技量向上にも通じていくからです。
 授業や教育において「みんな」はいません。教室や学校では“”の集団を前に行いますので,「皆」「みんな」と表現し,そこを対象にしがちですが,そうではないのです。  有田氏は,“モデル”を思い浮かべて行うことで,それを避けようと言われます。  若い先生は,1学期の授業や指導では,それができていましたか。  さらに,先の言葉で最後に出てくる“リスク”は,何を求めれいるか分かりますか。リスクを避けるのではなく,効果を最大にし技量向上ができる取り組みは…。  先生,求めてください。  有田氏の別の言葉。
 今の教師は,やたらと優しいか,甘いか,あるいは厳しいかのどちらかである。  厳しい教師がものすごく少ない。行儀が悪くても注意さえできない教師がいる。  これに対して,すぐれた授業をする教師たちは,基本的に優しい。優しさがにじみでている。しかし,子供の度が過ぎた行為や言葉つかいには,厳しく注意している。注意された子供たちは納得している。学級経営がうまく,子供が教師を心から信頼しているからである。  学級経営をうまくやるには,教師は子供に合わせなくてはならない。合わせながら,ゆっくり教師のペースにもっていくことが大切だ。急いでよいクラスをつくろうとして,オレについてこいとやると,ヒビが入りやすい。今の子供には,この方式は向かない。むしろ後ろからついていく,くらいの考えで,子供に合わせながら,水のみ場へゆっくりつれていくことだ。多くの教師は急いで失敗している。子供と教師の間がピッタリといくようおおらかな対応を心掛けることだ。  この優しさと,ときに厳しさがうまくミックスして,子供たちは人間的に成長していく。甘えすぎない子供,自立した子供が育っていく。  多くの教師に望みたいことは,どんなときに厳しくあたるべきかを考えてほしいということである。厳しさに欠けていると,せっかくの優しさが生きないのである。
 先生,厳しい先生ですか。  芦田恵之助氏の言葉です。
 教育は「子供を修養(知識を高め,品性を磨き,自己の人格形成につとめること)を楽しむものに仕立てる」ことが肝要である。  修養の味を知れば,その者は終生,向上発展して止まぬ。自己の上に満足を求めるから,他と比較して,羨望し,煩悶し,憤慨することはない。  子供が修養を楽しむようにするその方法は,教師がひたすら修養を楽しむということである。  修養の味を知らない者が修養の味を知らせようということは,無から有を生じさせようと計画するのと同じで,不可能である。  教師が修養の味をしめてさえいれば,説かなくても,その一挙一動が有力な説明である。  訓練の意義を,教師と子供の人格の接触によって行われるものだと聞いている。もしそうであるのであれば,訓練ということは非常にむつかしいものに相違ない。  教育者は,すべて立派な人格であるという前提が成り立たない限り,訓練は軽々しく論ぜられるべきものではない。もし教師の人格に関して一点疑うべきふしが存在するならば,訓練は根底から覆ってしまうであろう。
 子供の成長を願い,修養を楽しみたいと思います。  先生,この夏,修養していますか。