集団「Emication」別館

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15-8 川尻城址(2) (作手村誌57)

クリスマス1224。 『作手村』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 − 第二章 中世」−「第九節 作手の城址」の紹介です。  「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。  項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。 ********     第二編 歴史 − 第二章 中世      第九節 作手の城址   *川尻城址  〔所在地〕 作手村大字高里川尻字城山 (図15(つづき)  築城の時期については『中津藩史』、『寛政重修家譜』ともにその時期を明らかにしない。ひとり『旧作手村誌』のみ1424(応永31)年3月とし、僅か5か月後の8月、亀山城に移ったという。何か拠るべき資料に基いたと思われるが、この説には幾多の矛盾がある。その第一は僅か5か月の間に築城が可能かどうか。上野国退去も形勢悪化のためで、まして縁もゆかりもない敵地にも等しい作手に来て、即座に築城に必要な労働力を、徴用することは不可能である。一族郎党を率いて来たとしても、ここに住みつくのは容易なことではなかったのである。  第二に時期が悪い。城造りはどこでも農閑期を利用するのが一般で、植付時の農繁期に工事への徴用を強行すれば、それだけ秋の収穫は減り領主も百姓も苦境に立つ。 移住1224。 第三に、築城は領主の運命をかけての大事業で、知力財力を傾けての総力戦である。それが出来上った途端に役に立たず、さらに大きい城を築いて移るというような、無定見なことが行われようとは思われない。  亀山城移転が1424(応永31)年8月とすれば、奥平氏の作手来住は当然それ以前でなければならない。奥平氏上野国退去については、1424(応永31)年のほかに1396(応永3)年、天授年間(1375〜1381)等の説がある。応永年間説は尹良親王遭難の『浪合記』に関係がある。また奥平貞俊の出生についても、1349(正平4)年、1365(同20)年の2説があるので、作手来住時の年齢その他は「作手奥平のはじまり」を参照されたい。  一介の素浪人から身を起し、小さくとも一城の主となるには、相当の年月がかかるはずである。作手郷とて当時無人であったわけではあるまい。相手を打倒し里人を服従させるには、10年あるいは20年を必要とする。奥平氏が驚異的な発展をするのは二代貞久のときで、1396(応永3)年生れの彼はすでに30歳、貞俊は60〜76歳の高齢である。したがって亀山城移りは実質的には貞久時代である。  以上諸点から考察すると、天授年間(1375〜1381)では貞俊が幼なすぎるから、1396(応永3)年移住、30年間に川尻城が手狭となり、より大きな亀山城へ移ったかと思われる。 (つづく) ******** 分布図s-1209。 注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で  注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。  注3)右図「作手村城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。 【関連】   ◇川尻城址 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/05/03)   ◇川尻城址 (作手見聞録)(2022/11/02)   ◇「奥平貞俊と川尻城(前半)」(続 つくで百話)(2019/12/07)   ◇「奥平貞俊と川尻城(後半)」(続 つくで百話)(2019/12/08)  《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04) 【参考;クリスマス・年末年始】  クリスマス、そして大晦日、正月と、年末年始のイベントが続きます。  先日(12/17)、「年末年始の歳時から 【リンク集】」を掲載しました。  クリスマス、サンタクロースの話題も紹介しています。  ご覧ください。  サンタクロースの秘密が…。
 ◇映画『レッド・ワン』公式サイト