黄砂。 Jアラート。 3-3.3 ふたたび東郷東小学校へ(1) (昭和に生きる)
天気がよく暖かい一日でした。
「広く黄砂が…」と予報されており、当地も“いつもより濃い春霞”でした。暖かさに、車の窓を開け風をいれると、くしゃみが…。
明日も注意が必要です。
今朝、ケータイが警報音を鳴らしました。
見ると「全国瞬時警報システム(Jアラート)」が発令された通知でした。
対象地域は“北海道”です。詳細を確認し、テレビを付けました。
登校途中の子供達は、どうしたのだろう…。
もしも現職のときだったら、どのような“対応”を指示したのだろう…。
いろいろ考えることのあった一日でした。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。
この項は、「小学校の校長として」から構成されています。
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戦後教育史の片隅に生きる
小学校の校長として
ふたたび東郷東小学校へ 九階をあとに
子どもから離れての生活、土帰月来の二重生活。そして人事行政担当という激務の二年間──。やっとの思いで解放される日がやってきた。
昭和五十五年三月三十一日、年度末人事の総括をすませ、やや早目に仕事を片づけ、同僚に別れをつげて、なつかしの住家、県庁九階の教職員課をあとにした。いろいろ苦しかったこと、楽しかったことが一瞬のうちに走馬燈のように頭の中をかけめぐった。県庁から約三時間の帰路は、車窓の景色も心なしか明るく感じられた。家に帰って早速お風呂に入って役人生活の垢を流してサッパリした気持ちになって自室にくつろいだときには、長い春の一日もすでに夜のとばりをおろしていた。
三月中は、人事異動、新卒配当の仕事のため、ほとんどがキャンプ生活で新しい学校での計画など、じっくり考える余裕などなかった。今、いよいよ“明日から学校”で、子どもたちと生活をするんだという気になった。いや、むしろ自分で自分にそう言いきかせていたといったほうが適切だったかもしれない。“きょうの明日”というかわり方はは、そうかんたんに凡人にできるものではない。たかが転勤と人はいうかもしれないが、二、三日ゆっくりと休養し、明日への準備のため休暇が与えられないものかとグチもでてこようというものである。
グチをこぼしていても、明日への前進はない。合宿作業のあいまあいまに、どんな学校に育てようかと断片的に具体的に考えていたことを、つなぎ合わせては、学校の経営方針を立てることにした。いろいろな思いが交錯するなかで、校訓の“たくましい人間”を育成する基本線の上に“社会科研究の拠点校”にすることを目標に進むことにしたのである。
赴任する新城市立東郷東小学校は、教員生活のかけ出しのころ十年間勤めた思い出の学校であるし、また、ここ数年は名古屋大学の三枝・日比先生が指導されていて、新城地方ではちょっとした研究校の実績をもっている学校でもあって、活躍するための舞台は完全に整っているという好条件にあることは、しあわせなことである。学校は、新城市の北部にあって、長篠の戦のあったところで農村部にあたる。学級数一三(特殊一を含む)教員数一八名、そして児童数四一一名というまったくこじんまりとした学校で、敷地も広く景色もよく、環境に恵まれている。
本年の教員異動はことのほか大きく、若い先生が多く入って、年齢のバランスはかなりよくなってきたが、学級担任の半数は新任者ということである。しかも隣の東郷中学校が新校舎建設のため、この夏休みまでは同居生活という状態が続くということで、学校生活が正常とはいいがたいので、わたしは一学期間を、再出発のための準備期間に当て、体制のたて直しと研究の前進のための地固めにしようと考えたのである。「禍を転じて福となす」ということでもあろうか。
こんなことをあれこれ考えて、前途に光明を見出しホッとしたとき、時計は三月三十一日を送り、四月一日を迎える十二時を知らせていた。 (昭和五十五年「考える子ども」一三一号)
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で
注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。
【参考】
◇弾道ミサイル落下時の行動(内閣官房 国民保護ポータルサイト)