雨の一日です。“
警報級の大雨”との予報が出ています。みなさん,大丈夫ですか。
今日は,
国民の祝日の一つ「
昭和の日」です。
祝日法で,「
激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす」日とされています。
昭和時代は祝日「
天皇誕生日」でした。1989年1月7日に
昭和天皇が
崩御され,それを受けて「
みどりの日」となりました。その後,2007年から「
昭和の日」となっています。
新型コロナ禍の
ゴールデンウィークは,外出を控え Stay Home で過ごしましょう。
『
作手の名勝と史跡めぐり』(発行1997年?)からです。
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文殊山城址と塞之神城址
作手村歴史民俗資料館からとりあえず車で,西に向かう。作手村診療所が見える。その敷地の南側を通り西南の付近より山に登る砂利道が見える。林道である。砂利道であるため,車を急がせるとスリップすることがあるから,ゆっくり走らせよう。
途中,休憩所のある付近に塞の神城址に登る案内標識があるが,ここはひとまず,文殊山城址をめざすことにしよう。作手村歴史民俗資料館から約1.6kmの道のりで頂上に着く。駐車場へ車を入れ,正面の石段を登ると広場にでる。
頂上の案内板には,次のように書かれている。 この城跡は,亀山城主の奥平氏の砦城で,元亀年間(1570〜72)に武田氏との和睦の証として,塞の神城とともに築く筈であったが,延引したため,武田氏より強談に合い奥平氏が一夜にしてこれを築いたため一夜城とも言う。
作手村誌には,この一夜城については次のように説明されている。 この条は里人の口碑をそのまま記したものであろうが,まともに受けとれない妄説である。現地を見ればこの城が一夜でできないことは一目瞭然である。強いて言えば,工事が完成してから周囲の木を伐採,そこに忽然として現れた城を見て,あたかも一夜にして作った如く取り沙汰されたものでなかろうか。
と,記されている。一応うなづける。但し,一夜城の話の方が物語性があっておもしろいように思われる。
頂上の案内板にはなお,次のように続く。 中央の文殊菩薩は明治時代に地元有志により奉納された石像で,台石には「西須山村・東市場村」と刻まれており,当時村境であったことが分かる。その右に宝篋印塔,左手に足助町有志が奉納した笠付の円柱石塔があり,この山は近世から近代にかけた信仰の山であったことを示している。又,この文殊堂は善福寺の奥の院で,文殊菩薩は智恵の文殊とも言われ,卯年生まれの守護仏で,縁日は毎月二十五日,唱え信言『おん・めはらしゃ・のう』 合掌
とある。
頂上から四方を見渡すと,山並が見える。南側にはこの城の本城である亀山城址,清岳・白鳥の集落,右手のほうへ少し視線をずらすと本宮山頂の通信施設,手前に鬼久保ふれあい広場,さらに右手に巡らせると,北側には獅子ヶ森,巴山等が見える。山の木立が育ち,やゝ見晴らしが悪くなっている所もあるが,それでも,広々としたパノラマを楽しむことができる。冬には,遠く南アルプスも見える。城址には[江戸彼岸]「霞桜」「大島桜」の若木が植えられている。[山吹]「細葉石楠花」等も植えられ,四月から六月にかけて花を楽しむこともできる。夏には涼風が吹き,休憩所で腰を下ろし,持ってきたお茶で喉をうるおすと命が延びるような気がするのは,文殊様のご利益が及んでいるのだろうか。
この文殊山を東へ尾根伝いに歩くと塞の神城址に着く。案内板に従ってゆっくりと木立のあいだをぬうように歩いて二十分から三十分かかる。
本丸に近づくにつれて,アップダウンが強くなってくる。これが空濠ではないかと想像できる。本丸に立つと直径30mの円形の広場である。周りは土塁に囲まれ,東に追手口,南に搦手口につづく虎口がある。
雑木に覆われていたが,村の郷土史部会の皆さんにより下刈り作業がおこなわれ,城跡をくっきりと見分けることができる。
ここからは,そのまま歩いて山を降りると清岳地内にでるが,自動車の方はもう一度文殊山の方へ戻らなければならない。
《図上》 文珠山
城址(歴史の小道)
《写真》 文珠山
城址本丸付近
《図下》 塞之神
城址(歴史の小道)
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注)
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