平成レトロ? 15-1 亀山城址(1) (作手村誌57)
「昭和レトロ」が話題になりますが、玩具の話をしていて「◯◯は…。平成レトロですね。」と言われました。
話題になった“おもちゃ”が人気・ブームになったのは92年代なのだから、それらを「平成レトロ」と言い再評価されるのもうなづけますが…。
何となくモヤモヤ…。
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 − 第二章 中世」−「第九節 作手の城址」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 − 第二章 中世
第九節 作手の城址
*亀山城址
〔所在地〕 作手村大字清岳字シロヤマ (図28)
〔面 積〕 17,388平方メートル(登記簿による)
南北に細長い作手村の南西部、大字清岳の半独立性丘陵上にある。本丸の高さ海抜547m、平坦面との比高差30mであるから、平山城である。城地の周囲は水田で、東南方一部が山地につづいている。城主奥平氏は徳川家康の女婿に当たる信昌を出した家で、幕末豊前中津10万石を領した。その城郭絵図が、広島市立図書館「浅野文庫」中にあるので、以下その古図と現場を対照しつつ、記述を進めることにする。
〔本丸から東へ〕 長径60m、短径28mの楕円形で、周囲に土塁をめぐらし、二の丸と西曲輪へ出る処に虎ロ(出入口)がある。土塁の遺存は概して良好で、北側で一部流失しているが、両虎口で高さ三3m、南側中央で2m、褶幅(上端幅)2.5mある。古図だと両虎口とも喰違い形式となっているが、現状ではその土盛は全く流失している。本丸の北斜面は極めて急峻で、自然斜面を削り取って急斜面としたらしく、土塁下10mの処に、犬走りと思われる狭い平坦面がある。
南方土塁は、古図だと横失が.かりの如く鍵の手に屈折しているが、実地にその形跡はない。本丸址は公園化し、ベンチを配し桜など樹えた中央に、1916(大正5)年建立の「亀山城趾 愛知県」の記念碑がある。
二の丸は本丸の東に連り、不整方形33mに29m、本丸より2.4m低い。周囲をめぐる土塁は盛土の流失著しく、南側で約1m、北側で最高2.6mを測るにすぎない。この土塁を切って東側に虎口があり、喰違い形態が痕跡から知れる。南側隅にも本丸土塁との間に幅6m程の虎口があり、空濠に通じている。土塁の外斜面は急で、南及び東側で5mで平坦面に、北側は自然急斜面で下方に向う。
二の丸虎口を4、5m下った処に、幅10m、長さ20mほどの不正長方形の腰曲輪があり、古図だと左右2か所に通用口が書かれているが、現状では1か所しかない。またその下に鍵の手と長方形の、それぞれ土塁をめぐらした曲輪が描かれているが、現状ではその面影はなく、幅10〜15m、長60mの平坦面をなし、三の丸と称していい規模である。外方5m下は農道であるが、昔からこのとおりか、それとも農道開通によりこうなったのか明かでない。古図の扇形曲輪は現状では不明である。
(つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)右図「作手村の城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。
【関連】
◇亀山城址 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/05/12)
◇亀山城址 (作手見聞録)(2022/11/11)
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)
【おまけ】
古い記事を調べていて、2019年の正月に見つけた“謎の人気動画”として、次の動画を紹介していました。
この動画を観たことありますか。「カタカナ英語」でも十分コミュニケーションがとれそうですが…。