15-2 亀山城址(2) (作手村誌57)
『作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「第二編 歴史 − 第二章 中世」−「第九節 作手の城址」の紹介です。
「歴史」について、これまでに『作手村誌』(昭和35年版)の記事を紹介しています。
項目立てを変えて述べられいる本版から、執筆当時の“想い”や“願い”を感じながら、作手の歴史を辿っていきたいと思います。
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第二編 歴史 − 第二章 中世
第九節 作手の城址
*亀山城址
〔所在地〕 作手村大字清岳字シロヤマ (図28)
〔面 積〕 17,388平方メートル(登記簿による)
(つづき)
〔西曲輪から空濠へ〕 本丸西虎口を出たところにあるのが西曲輪で、古図だと本丸との間に土橋があり、両側は空濠であるが、今は濠は埋まり橋の形態は明らかでない。したがって西曲輪の広さは土橋と推定される部分を除いた、10mに18mで、コの字に近い土塁も盛土が流失し、痕跡程度であるから、南北両端に虎口のあったことは想像するしかない。
西曲輪の北に連り、幅10〜15m、長さ40mの平坦面がある。本丸より7mほど低く、一見すべてが曲輪址のように見えるが、古図をみると、土橋から始まる空濠が本丸を囲み延びていたのが、多年の風雨で土塁が崩れ落ち濠を埋めたので、外側の曲輪との区別がつかなくなったと考えられる。
西曲輪の下3.5mの処に、幅9m、長さ21mの長方形曲輪があり、コの字形の土塁は痕跡のみであるがその所在だけはわかる。
この腰曲輪の北方、濠が埋ってできた曲輪の下5mの処に、三角形をした小平坦面があり、里俗に大手と称している。もし大手曲輪とすれば、当然城外への通路につづくものでなければならないが、古絵図にも実地にもその跡はない。
以上2つの曲輪のほかに保存良好な大空濠がある。濠は箱薬研式で、北に向って緩やかに傾斜し、35mで北方崖面に開放している。濠は上端幅9−11m、濠底1.5−3mで、掘削土により構築された土塁は緩かに下降し、濠上端と濠底との比高差は東側で3−4m、西側で2mで、褶幅は東側1m、西側2−4mで自然地形につづいている。
〔本丸の南側〕 本丸南側土塁斜面と、さらにその外側を巡るもう一つの土塁・腰曲輪との間に、上端で16m濠底で幅4mを測る大空濠がある。二の丸南虎口下から緩傾斜で始まり、外土塁との中央辺で最低、また次第に右にカーブしつつ、西曲輪土橋へと上昇していく。濠の最低地点と本丸土塁との比高差は8.35mに及ぶ。この空濠はもちろん防禦用のものであるが、同時に各部を結ぶ通路でもあったもので、ほぼ中央部に長8m、幅2m、深0.5mの池状凹地があり、古来井戸址と称している。もちろん堀井戸ではなく、あるいは底を粘土で搗固めた天水溜りであったかも知れない。
外土塁は延長25m、比高2mで、上部に幅3mの平坦面がある。外土塁と西曲輪との間に、幅9m、長さ27mの腰曲輪がある。濠底は土橋に向って上昇しているので、比高差は内側で2m、外側は2.5mを急角度で下る。古図では外周に土塁があることになっているが現況では痕跡もない。
二の丸南虎口を空濠を隔てて対する位置に、幅15m長さ23mの南曲輪がある。古図では孤状に土塁をめぐらす扇形であるが、現状では方形に近い。土塁は盛土があらかた流失して、高さ50cm程度に過ぎず、南斜面は急峻で高さ3mある。この南曲輪と外土塁の間に、8mの間隔があり、古図では両端に土塁をもつ虎口が描かれているがその形跡はない。
以上で塁郭の説明は一応終るが、この城には疑問点が少なくないので、それについて述べてみる。 (つづく)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
注3)右図「作手村の城址・古石塔・寺院分布図」をクリックすると拡大表示します。
【関連】
◇亀山城址 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/05/12)
◇亀山城址 (作手見聞録)(2022/11/11)
《参考》◇「地域の話題」から(リンク集)(2024/10/04)