『
作手村誌』(1982・昭和57年発行)から「
第四編 文化 − 第三章 民俗」−「
第三節 生業と交易・交通」の紹介です。
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昭和レトロが若者に人気ですが、それとは違う内容になりそうです。しかし、昔の“
文化を“
今”に活かしていくヒントを探ってみたいと思います。
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第四編 文化 − 第三章 民俗
第三節 生業と交易・交通
*農業
(つづき)
〔稲刈り〕
10月は稲刈りの期節である。片手に鎌を持ち片手で稲株をつかんで刈り取る。つかみきれなくなると田に置く。だいたい二つかみずつくらいを、根に近いほうで交差するようにワラで結んで一把とする。
男衆はハザ(稲架)作りに忙しい。戦前は5〜7段の大ハザを多く作ったが、戦後はガニハザ(一重稲架、蟹の足に似ているのでこの称がある)が多くなった。最近はコンバインの普及とライスセンターの利用によってハザを作らない農家が多くなった。
〔脱穀・調整〕
脱穀のことをイネコキという。大正のころはまだコバシ(千歯こき)が使われていた。秋は忙がしく日が短かいので、明かるいうちに稲を家の中へ寄せておき、脱穀は松明の明かりをたよりに夜行った。昭和になって脱穀はコバシから足踏み脱穀機に変わり、戦後動力脱穀機に変わった。
きれいになったモミをさらに2日ほど実干しして籾俵に入れて保存するか、タテに入れてモミヒキに備えた。
11月末ごろ土臼(赤土をつめて造ってあるので、この名がある)をしつらえてモミヒキをする。戦時中から作手にも動力籾すり機が普及して作業が楽になった。
〔畑作〕
作手の農業は米作が中心で、畑面積は水田のそれに比べて少ない。交通が不便で高冷地、そのうえ市場に遠い本村では、戦前は野菜など換金するすべもなく、勢い自家消費用の野菜・麦・豆類をわずかに作付けする程度で、大部分は桑畑であった。
最近ではハウス園芸、葉タバコ栽培などが盛んになり、水田までも畑化し、トマトを中心とした野菜・茶・草花などが市場向けに出て行くようになった。
〔養蚕〕
戦前、作手のような小百姓では、収穫した大部分の米を自家用として保存しなければならなかった。それでも節約して換金しようとすると「作手の米はまずい」といって買いたたかれた。それに反して繭は確実に換金できた。相場によっては米よりはるかに有利であったので、養蚕の季節になると主家の大部分を蚕室に充て、自分たちは小さくなって隅のほうで寝た。蚕には敬称をつけて「おカイコさま」と呼んだほどである。
(つづく)
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注)これまでの記事は
〈タグ「作手村誌57」〉で
注2)本文内で、縦書き漢数字で書かれている数値を横書きに改めて表記した箇所、年号に西暦を追記したところがあります。
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