草川 信(1893〜1948) 長野県出身 広く親しまれているこの童謡は、大正12(1923)年7月発行の「新しい童謡」(一)に発表された。「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る……」という情景は、日本の田舎ならどこでも想定できるものなので、全国10カ所に詩碑が建てられ、また日本の代表的な子どもの歌として英訳もされている。草川信は、大正6(1917)年東京音楽学校(現東京芸大)を出て、バイオリニストから作曲家ヘの道をまっしぐらに歩むのだが、まもなく「赤い鳥」の鈴木三重吉を知るようになる。そこに草川信の人生の転機が訪れるのだが、その出会いのきっかけは知る由もない。やがて鈴木の童謡運動に参加し、多くの作品を「赤い鳥」誌上に発表するようになるとともに、しだいに頭角をあらわし“童謡の草川信”の名声を高めていくのである。 「夕焼け小焼け」の作詩は、中村雨紅で楽譜が出版されたのは、「ゆりかご」「どこかで春が」の作曲と前後して大正12(1923)年の夏のことであった。しかし、出版が関東大震災と重なって、ほとんどが焼けてしまい、わずかに残ったのは見本刷りの十数部に過ぎない悲運に見舞われたが、昭和5年、「世界音楽全集」に、この童謡は集録されることによって、全国に広がっていったのである。 草川信はこの童謡の作曲の動機について、 「よく私は少年の日を過ごした故郷にでも立ち帰ったような気持ちで曲を書くことがありますが、この曲などがまさにそれです。雨紅さんの歌詩への作曲をしますとき、善光寺や阿弥陀堂の鐘が耳の底にかすかに鳴っておりました。山の頂きが夕映えに美しく光っていました。山国の夕暮れは静かに、しかも美しくありました」 と、いっている。 今、善光寺阿弥陀堂の“夕焼小焼の鐘”、往生寺の“夕焼けの鐘”の鐘の音を、戦後の付属小学校の子どもたちも聞きながら、たくましく育っているのである。 しかし、草川信は、昭和23(1948)年「みどりのそよ風」の作曲を完成して、まもなく55歳の生涯を閉じることとなる。 (つづく) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で 【おまけ】 ◇中村雨紅が愛した夕焼けの里 (2010/04/18)(風見鶏 随筆集より)
協議会。 6-25 夕焼け小焼け(1) - 作曲者 草川 信 (昭和に生きる)
先日、多くの人が“足踏み”をしているように見えました。近づいていくと、そこは畑でした。
足踏みに見えたのは、皆さんが“横歩き”で「麦踏み」をしている姿でした。
近頃、身近では見かけることの無くなった農作業です。
子供達の姿もあり、地域の方々が進めるイベント(企画)かもしれません。子供にとって、貴重な体験ができていると感じました。
午後、第4回新城市国民健康保険運営協議会がありました。
会議は、先日の令和6年度国民健康保険税についての答申について報告し、「第2期データヘルス計画及び第3期特定健康診査等実施計画最終評価(案)」「第3期データヘルス計画及び第4期特定健康診査等実施計画(案)」について検討、協議しました。
計画と評価…、思うこといろいろ…。
関係のみなさん、ありがとうございました。そして、よろしくお願いします。
故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。
渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。
この項は、「第四章 ハナノキの下で──教育断想」から構成されています。
この章では、新城小学校での校長室通信「考える」から、その時々の思い、気づきを新聞へ連載されたものです。
若い先生にとって、これからの「子供を育む」・「授業を考える」ことができるといいなあと思います。
********
ハナノキの下で
1 教育シグナル
(つづき)
◎ 夕焼け小焼け(1)──作曲者 草川 信
「夕焼け小焼け」に、ここ信州大学付属長野小学校の子どもたちは、以前から深い親しみと関心をよせていた。それもそのはず、日本の老若男女を問わず、親しみ口ずさむなつかしのこの童謡の作曲者、草川信が、明治40年の付属小学校の卒業生だったからである。