○会長挨拶&小咄「笑いと健康」 愛狂亭三楽(玉置崇) ○学校漫才 山へ芝刈りへ(芝田俊彦・山田英嗣) ○教育漫才 学校RR(大西貞憲・斎藤早苗) ○スタンディング落語 野口芳宏 〈中入り・休憩〉 ○江戸落語 柳亭小痴楽 ○上方落語 桂雀太 〈中入り・休憩〉 ○対談 「落語のまくらから学ぶ」 桂雀太・柳亭小痴楽・野口芳宏・玉置崇新型コロナ禍でオンライン開催となり,会場の“空気”や出演者の“息遣い”を体で感じられないのが残念ですが,移動時間なく参加(視聴)できました。 ありがとうございました。
「教育と笑いの会」。大昔の稲作(5) (つくで百話 最終篇)
冷たい風の吹く寒い日でしたが,陽だまりや窓辺は暖かでした。
午後,「第13回 教育と笑いの会 オンラインライブ」で,楽しく笑いました。
さまざまな催しがオンラインで行われるようになり,主催者も参加者も“新しい集いの形”を模索し創っています。田舎に住む者には,新しい世界が拡がり,新しい出会いができ,嬉しいことです。
今日初めて見つけたことがありました。
オンラインの催しは,パソコンを使って参加や視聴をします。それをテレビ等で見るにはコードで接続しますが,Wifi接続を利用できることが分かり,早速試しました。
上手くいきました。暖かいところで,ゆったりと大きく笑いました。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
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大昔の稲作 西尾敏男
五、
木製農具による浅耕しで,しかも無肥料の直播き栽培を毎年つづけていたら,田は瘠せて,年々収量はさがってくる。鉄の刃先をつけた鋤や鍬が出てきたことは幸いであった。乾燥地への開田もすすめられるが一方,深耕ができる。刈草や山柴を肥料として打ち込むことができるようになった。地力がついてくるとこれまでのように,厚播きの撒播きではうまくない。少しずつ薄まきにしてゆく。薄播きにすると発芽が揃わない。厚いところを間引いてうすいところへ補植する植えた稲が分けつして思いのほか立派に育つ,穂も大きいが稔りもいい。そんな経験をくり返しながら次第に田植えに変わってきたのではないか,と考えられている。
大和朝廷時代に屯倉と言う朝廷の直轄地を全国においた。屯倉というのは,もともとは穀物を収納する倉庫をいうのであるが,所有地に付属する施設も,これを耕作する農民も,いっしょに含んで呼ばれていた。その屯倉が全国各地に多く作られたのが安閑天皇のころだから,鉄製農具の普及と稲作の発展を物語っているのではないか。田植えのはじまりもおそらくそのころで,鉄製農具の広がりと歩を同じくして広がっていったのではないか,と言う。
鉄製農具が使われはじめたのはずっと早いけれども,それがそのまま当時の日本国中に広がったわけではない。はじめは,皇室や権門,それから豪族というように,力があり,金のあるところからはじまって,やがて一般に使われてくるのである。
血のつながった一族郎党を率いる家長を中心にした共同耕作は依然としてつづけられ,こうした家族共同体が次第に増えてゆくなかで,旧耕地の周辺の開発や,集落自体の高地への移動,或いは有力な家族集団は旧耕地の外に新しい耕地を独自にもつ,など,個別経営への歩みがすすめられるが,一族郎党としての大家族形態からは脱けきれず,従兄に,また従兄,そのまたいとこと年ごとにふえつづけ,それに作男・作女,その家族をも含めると,普通で二十〜三十人,多いのは七十〜八十人から百人にもおよぶ大家族になり,家族の内部にいろいろな予盾が出はじめてくる。そんな頃大化の改新となる。このような大家族を戸としてとらえ,家族の人数に応じて田を分け与え,戸の占有が認められるのである。
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【関連】
◇第13回教育と笑いの会
◇三楽の仕事日記(玉置崇)
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◇フォー・ネクスト(大西貞憲)
◇斎藤 早苗(Facebook)
◇野口芳宏(Wikipedia)
◇落語家【柳亭 小痴楽】
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◇授業と学び研究所