拡散してください
— みのわあい。熱海伊豆山から避難中 (@aiminowa) July 4, 2021
必要車両が入れません
取材班は徒歩で来てください
地元民も動けなくなります
取材ヘリも控えてください
音が救出活動の邪魔です
通行止め出さないのが悪いって
今あなた何を言うのか
どことは言わないがその取材班!コラ#伊豆山#熱海土石流#熱海山崩れ #熱海市#熱海伊豆山 pic.twitter.com/cNwyd6wRDB
2.(9-3) 日清戦争・日露戦争のころ (わたしたちの村)
予報では,曇りや雨でしたが,日差しのある一日になりました。
蒸し暑く"暑い日”でした。
今日の食事に,初物のナス(茄子)がありました。
季節の味,大地の恵みを感じながら食しました。美味しゅうございました。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(九) 日清戦争・日露戦争のころ
5 作手村の成立
日清戦争のころから,日本の産業が大変進んできました。それにつれて,村の仕事もふえてきました。仕事がふえれば,お金もたくさんかかります。小さな村では,そのお金を出すことができません。
そこで,国や県では,村の合併を進めて,大きな村をつくるようにしました。
作手では,1889(明治22)年にできた九つの村を一つにまとめて,1906(明治39)年に作手村という名前がつけられました。
その後,1948(昭和23)年に,東加茂郡下山村のいくつかの字が作手村に入って,今の作手村になったのです。
6 作手農林学校
明治のころは,作手には高等小学校がありませんでした。そこで,尋常小学校を卒業してからも,村の大事な産業である農業や林業のことを勉強する学校がほしいということになりました。そして,1898(明治31)年に,高里の正眼寺をかりて作手農業補習学校をつくりました。1904(明治37)年には,中等学校としての作手農林学校になりました。
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注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。
【おまけ】
災害時に思うこと。「被災地に,こぞってマスコミが行くことはない。」「報道は,どこも同じでも困らない。」「"スクープ”を求めているのは,あなた(取材者)だけ。」と。
野次馬もいるでしょうが,迷惑なのは取材陣。
違うかな。