集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

3-1.20 「奥平信昌(4)」 (作手村誌)

鯉幟0417。 よい天候の一日でしたが、時折強風が吹きました。  風が冷たく、肌寒さを感じましたが、やっと“初夏”になったようです。  『作手村』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。  昨年の大河ドラマ鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。  『作手村』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。 ********     第二編 村の沿革と歴史     人物 奥平氏   奥 平 信 昌 (つづき) 天正四年信昌、奥平修理定直を築城奉行に命じ、自ら繩張りを指揮し、設楽郡平井村郷ヶ原と称する原野に新城を築き是に移る。これ、先に家康の信昌に対し、長篠は要地なりと雖も土地狭少にして永く居る所にあらず、宜しく伊那街道の要所に位し、山家三方の関門を扼する大野田附近に築くとの説示に従いしものなり。此の年七月藤尾某夫人(亀姫)を背負いて潜に城に入る、蓋し乱世の習俗、途中輿の奪わるるを防がんためなり、正式入輿は十二月二十二日にして、西尾吉次 信長の命を奉じ輿を護りて到り婚儀を披露す。故に正式入輿の際は空輿なりしと、天正五年三月二十一日、亀姫夫人、新城町に浄土宗宝来山大膳寺を建立して境内の山林十四石二斗七升一合の地を寄付せり。生母築山殿、法名清池院殿潭月秋天大姉を供養し並に長篠城陣歿者の雲を弔う。  天正八年春、徳川家康遠江国高天神(武田の属城)を攻む。信昌命を奉じて甲斐、遠江国の国境を守備す。 天正十年二月家康信長と約し武田勝頼を討つ、信昌、酒井忠次と先鋒となり進んで甲斐国へ入る。天正十年六月二日、信長其の臣明智光秀(丹羽国亀山城主)に殺さるるや、甲斐、信濃諸豪族蜂起して動揺せり。七月、家康、信昌等を従えて甲府に向う。八月北条氏直信濃を経て甲斐に向う。十月徳川、北条二氏の和なり甲信両国は徳川氏之を領し、上野を北条氏占有を約す。十二月家康信昌の功を賞し遠江榛原郡を賜う。天正十二年家康、北畠信雄(信長の子)を援け豊臣秀吉と戦わんとし三河遠江の兵一万五千を率いて浜松を発して小牧(尾張)に出陣す。信昌、酒井忠次と先陣たり、秀吉方の鬼武蔵と呼ばれた森長可と羽黒に戦い敵首二百を獲たり。天正十八年、秀吉小田原(相模国)の北条氏(氏政氏直)を征するや、家康先鋒を命ぜられ信昌亦是に従う。七月十日家康と共に小田原入城、十三日秀吉入城。秀吉北条氏の所領関東八ヶ国を挙げて家康に授け、三、遠、駿、甲、信の五ヶ国に換ゆ、八月二十三日家康諸将の功を諭じ、上野国緑野、多胡、甘楽四郡の内三万石を信昌に与えて小幡領宮崎に封ず。  初め家康、部下の功を賞するに当り、その考査表を秀吉の覧に供す、秀吉奥平三万石の上に十万石を朱書す、家康拝辞して曰く、奥平は我が女婿なり、老臣と同視すべきにあらず、重ねて機を待ち上意を奉ぜんと原安の如く三万石を賜るという。信昌の老臣山崎勝之、同生田勝重先行して宮崎城を領収す。この時徳川氏諸将(八楽関係出身者)の恩録に預れる千石以上の者左の如し。   奥平美作守信昌 上野国宮崎 三万石  菅沼大膳定利  上野国吉井 二万石   菅沼山城守定政 下総国相馬 一万石  菅沼新八郎定盈 上野国阿布 一万石   西郷孫九郎家員 下総国小弓 五千石  設楽甚三郎貞通 武蔵国札羽 三干石 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉でNHK大河ドラマ「どうする家康」 登場人物より】
奥平信正0410。
亀姫0411。