集団「Emication」別館

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大昔の人のくらし(3)-2 (つくで百話 最終篇)

空1011。 青空の綺麗な日になり,午後は気温も上がり暑い日でした。  庭に広がった,たくさんの洗濯物,敷物などが,よく乾きました。気持ちのよい一日でした。  ○○も捗りました。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民俗と伝承」の項からです。 ********     大昔の人のくらし   沢田久夫   (3) 縄文文化中頃のくらし (つづき)  中期の注目すべき現象として,土器が多様化し,しかも意匠が清新で独創性に富み,豪華なことである。世界的な美術家であり,評論家でもあるバーナード・リーチをして,「世界で最も美しい土器」と,讃歎せしめた火焔土器(越後・馬高)水焔土器(信濃・曽利)も,この期の産物である。粘土をこねて望の形に作り,乾して火に焼くと,硬度も色も全く違ったものができることを知ったのは,はるか一万二千年の昔である。それから七千年の間に,土器は尖底から平底に変り,筒形とかめ形の二つが現われる。それが中期になると,口縁に飾りをもった深鉢形,キヤリバー形が加わり,脚付杯,鍔付樽,釣手土器などの特殊形がでてくる。  民俗学によると,未開民族の土器作りは農耕とともに,女子の作業だったという。とすると日本も,土器作りは女ということになり,あの重量感溢れる大甕も,豪華絢爛たる把手付土器も,その繊手から生れたわけで,彼女たちの非凡な体力と技術に,今更の如く感心させられる。土器についての煩わしい記述はさしひかえるが,一つ二つ重要なものを記しておく。  キヤリバーというのは,医術で計測に使うカニの鋏のような形をした道具であるが,それに似て胴がくの字形をした甕がある。よくみると胴の上半,口縁から頸にかけ,内面に炭化物がついており,明らかに蒸器であることが分る。くびれた内径より少し大きいザル様のもの,サナを落せばどこかで止まる。草木の実を入れ,水をそそいで火にかければ,当然上が蒸すもので,下からは湯気がという簡単な原理である。今までの学界では,蒸器といえば弥生文化の底に穴のある蒸器(コシキ)と,煮甕との組合せを考えていたが,中国新石器時代の顱のような,一器よく蒸器となる形態だってあり得るわけだ。  釣手土器というのは浅い埦にブリッジ状の提手がついた土器で,埦の中では火がたかれた。ランプである。垂木から縄で吊るし,獣脂をたいたと思われるが,どこの家にもあるわけではなく,特別な神を招く家に軒高く吊され,神の導きの火となったのであろう。その火は夜も絶え間なく燃えつづけ,いずれ訪れる地母神の,新しい精霊を待ちつづけたと思われる。  大むかし,数少い人間が大自然の中に生活したというと,その時代は平和で幸福であったように思い勝だが,石器時代のくらしがそんなものでないことは,すでにくどいほど記した。生活は,すべて自然の手に委ねられていた。嵐も吹けば豪雨もある。大雪に降りこめられれば狩も漁もできない。地震もゆれれば野火も来る。野獣にかまれたり,病気に罹っても医者も薬もない。当時の人は,これらの災厄をすべて精霊の仕業と信じた。そこで,こうした不安を除くため,害を及ぼす精霊,即ち悪霊を退けるために,それよりも強い力を持つ神(善霊)にすがらねばならなかった。それが祈りとなり呪術となった。  外界に浮遊する精霊の災から身を守るために,彼等は身に入墨したり,お守りを携えたりした。土偶はそうした護符の一つで,人間や動物をかたどった土人形である。土偶では女性像が圧倒的に多く,グロテスクなものも少くないが,出土状況から推して,動物や植物の増殖を祈った地母神の像ではないかという。  人は獣を喰い,植物を喰い,あらゆる生命を奪って生きている。人もまた,何かに喰われて新しい生命のエネルギーに輪廻する。古代人もそれを直感的に感知していた。死体からは何かが生れる。その精霊をいつまでも自分たちの上に留めておきたい。そういう願望が,胞や幼児の死体を甕に収めて屋内に葬る風習を生み出した。今日の常識では我慢のならぬことだが,古代人の生死感では問題とならなかった。時代は違うが,古事記日本書紀に,保食神オオゲツヒメ,ワカムスビなどの死体から,五穀をはじめ食物を産む説話があり,地母神の信仰が上代にあったことを示している。土偶の立体的なのに比し,平板なのを土板といい,穴をあけ紐を通して身につけていたらしい。  作手の前期の遺跡は,今のところ明かでないが,隣接の新城市では,篠原(有海)大ノ木(大宮)の二ヶ所,鳳未町では,榎下(大野)桜の峠(愛郷)の二ヶ所,設楽町では,一ノ橋(田口)麦田(東納庫)中ノ平(西納庫)はじめ四ヶ所が知られている。  中期になって,始めて作手の田ノ口遺跡(菅沼)が登場する。ここは上菅沼部落の背後にある狭間で,水田がひらけ,戦国時代この地の領主であった菅沼氏の氏神,八幡社を中心に,山麓に連る八幡前・観音屋敷・甚太畑一連の緩傾斜地が遺跡である。大屋貝津(弓木)にもあり二ヶ所。隣接町村では,新城市に篠原(有海)上ノ平(有海)黒瀬(大海)東平・計ヶ池(豊栄)吉水(稲木)東平・白ナギ(臼子)の八ヶ所,鳳来町では,中西(川合)桜ノ峠(愛郷)の二ヶ所,設楽町では,神谷沢(豊邦)杉平(田口)蜂クゴ(西納庫)大名倉など二十ヶ所が知られている。こうしてみると町村間に遺跡数の差がありすぎるが,これが果して地勢に基くものか,それとも調査の精粗に因るものかはっきりしない。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉でおまけ
   『微笑み』  河野 進(1904-1997) どのような苦しみにも 暖かい微笑みを どのような悲しみにも 明るい微笑みを どのような恐れにも たじろがない微笑みを どのような不安にも 和やかな微笑みを どのような誤解にも 思いやりの微笑みを どのような憎しみにも やわらぎの微笑みを どのような冷たい目にも 親しい微笑みを どのような裏切りにも 黙って微笑みを   『ぞうきん』(河野進・著/幻冬舎)より